―323―池田筑後守長発を正使とする第二回遣欧使節団の一行に加わり渡欧。ひとりオランダに残り兵学校で学んだという。帰国後は開成所の教授となっているが、当時開成所の画学局には、のちに原田が指導を受ける高橋由一、山岡成章のふたりがいた。明治4年(1871)の岩倉使節団にも随行。帰国後は陸軍の整備に関わり、陸軍少将から貴族院議員に進み、男爵の爵位も得ている。開明的な思想を持った有力な父親に育てられた原田は、幼い頃から恐らくは留学することも視野に入れて、フランス語を学ぶ機会も与えられていた。父は軍人であったが、息子には充分な機会を与えた上で進む道は自身で選択させたようだ。兄豊吉は13歳の頃から既にドイツに留学し地学を修め、帰国後は東京大学の教授ともなっている(注4)。そして東京外国語学校を卒業した後に、原田が選んだのは洋画家となる道だった。明治15年(1882)、高橋由一が主宰する天絵学舎に入り本格的に絵画学習を始めることになる。その頃の作品については、渡欧前の作と推測されるミレーの《落ち穂拾い》模写があるのみで詳細は分からない。ただ天絵学舎で原田の指導にも当たった安藤仲太郎は、「原田君の画は中位で、綿密で冴えないといふ方であつた」(注5)と記している。それでも原田が幸運だったのは、留学を当然のことと考える父親がいたことだろう。兄豊吉が滞独中に親しくなったガブリエル・マックス(Gabriel Max)に師事することになり、明治17年(1884)、原田はドイツ、ミュンヘンに絵画を学ぶため留学した。4月にミュンヘンのアカデミーに入学、さらにマックスにも指導を受けることになる。留学期における学習の様子については、《裸体習作》〔図1〕など油彩による裸体の習作が3点確認できるほか、現存は不明ながら「1885」(明治18年)という年記の入った木炭による《男性像》〔図2〕が『美術新報』9巻3号(注6)に掲載されている。恐らくアカデミーにおいては、木炭による写生から油彩に移るという通常通りの過程を進んでいったと考えられる(注7)。さらに帰国後に原田が開設した画塾「鍾美館」の「学課課程表」(注8)を見れば、原田が受けた教育はある程度推測することができる。そこには「木炭ニテ人物写生」、「油絵具ニテ人物写生」という項目が確かに記されているほか、「遠近画法」や「人体解剖学」といった学科も記載されている。実技とともにこのような絵画理論も当然勉強したのであろう。渡欧前に絵はあまり冴えないと評されていたが、ミュンヘンでの学習は順調に身に付いていったようだ。明治18年(1885)の《男性像》〔図2〕でも描写力の高さをうかがうことはできるが、同年の《神父》〔図3〕を見れば、1年程の学習ですでに確実な人体把握や油絵具による表現方法を高いレベルで習得しているのが分かる。そし
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