鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―324―て翌年の《靴屋の阿爺》〔図4〕によって、ひとつの分野ではあるが、原田は西洋絵画の伝統と本質的な意味で肩を並べた最初の日本人となった。そのことを自身でも自覚していたのか、《靴屋の阿爺》〔図4〕を完成させた明治19年(1886)の11月、原田は帰国の途につくことになる。実質ミュンヘンで勉強していたのは2年半あまりにすぎない。この間に描かれた作品については、現存が不明なものも含めおよそ20点が確認できたが、そのほとんどが人物の半身像を描いた肖像画およびその基礎となる裸体習作であった。原田は帰国した明治20年(1887)に発表した「絵画改良論」の中で、ヨーロッパの美術教育において生徒は技術がある段階まで進めば、「自ラ歴史画工ト成ルトカ或ハ肖像画工ニ成ルトカ己レノ専門ヲ定メ」(注9)るのだと述べている。もちろん留学期間の短さもあって人物描写から次の段階へ進めなかった可能性もあるが、残された作品を見て考えれば、あるいは原田は帰国を決意した時点で自らの専門が肖像画であるという意識を持っていたと考えることができるかもしれない。帰国、肖像画家としての活躍明治20年(1887)7月、原田は帰国した。前年11月にミュンヘンを発って以降、イタリア等をめぐったのち、1月にはパリに到着、少しの期間、同地の美術学校にも通っていたという。4月24日付けでパリからミュンヘンで親交を結んだ画家ユリウス・エクステル(Julius Exter)に贈られた自身の肖像写真も残る(注10)。ヨーロッパを離れる最後のあいさつとして贈られたものであろうか。帰国後の原田は、ドイツで学んだ技術や知識を日本で伝えるべく様々な活動を行うが、健康な状態で制作に励むことができた期間は非常に短い。明治26年(1893)頃より脊椎カリエスを発症し、思うように制作ができなくなり、明治32年(1899)12月26日に亡くなってしまう。10年ほどの短い期間ではあるが作品を整理してみると、帰国後についても、ある特定の人物だけを描いた肖像画は、原田が最も数多く手がけたジャンルであった。このことは、洋画家の活躍の場が限定されていたことなど時代的な背景を考慮に入れる必要もあるが、原田がやはり肖像画家であるという意識を強く持っていた、また最も得意なジャンルが肖像画であったということを示しているようにも思われる。展覧会への出品歴を振り返ってみても、帰国した明治20年(1887)の龍池会新古美術品展示に父一道の肖像を発表したのを手始めに、およそ健康な状態で制作することができた明治26年(1893)頃までの間、明治美術会展や第三回内国勧業博覧会などの

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