鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―325―主要な展覧会の場に必ず肖像画を出品している。このことは西洋絵画の日本への移植を、肖像画を専らと決意した自らの立場で実現しようとした原田の意図を示しているとも考えられる(注11)。こういった活動は、実際に同時代においても原田に肖像画家としてのイメージを与えていたようだ。明治25年(1892)の『國民新聞』に掲載された記事(注12)では、西洋画家として原田は「原田(人物)」と掲載され、人物を描いた作品で有名な画家として紹介されている。親友であった森4外が「肖像やなんぞやで成功してゐることは争はれない事実」(注13)とも述べているが、展覧会の出品などを通して原田の肖像画は一定の評価を獲得するにいたっていた。鍾美館の開設と《騎龍観音》もちろん原田は肖像画家としても活躍したが、帰国後自ら背負った、また周囲から背負わされた西洋絵画の移植者としての責任感や期待は想像以上のものがあった。そのことが展覧会への肖像画の発表も含め、帰国後の原田の活動を決定した大きな要因となっている。特に原田が帰国してから画家として活動した数年間は、国内において洋画家たちが冷遇されていた時期にあたる。原田は当初から大きな逆風を受けながら活動をしなければならなかった。その逆風に立ち向かうように原田が起こした行動が、私立の画学校、鍾美館の設立と《騎龍観音》〔図5〕の第三回内国勧業博覧会への出品である。このうち鍾美館開設の背景には、やはり明治22年(1889)2月に開校した東京美術学校が、洋画家たちを無視したスタッフと教育方針で開校したことがあるだろう。事実、原田が鍾美館の設立を願い出た「私立学校設置願」(注14)の日付は、まさに東京美術学校の開校と時を合わせるかのように、明治22年(1889)1月25日になっている。また原田が明治25年(1892)に発表した「美術につきての一家言」(注15)においては、所謂日本画を元にしながら遠近法など西洋美術の要素を取り込む、という東京美術学校の方針により生まれた作品を「唯和洋折衷のものたるに過ぎざるが如し」と痛烈に批判している。鍾美館は、国の美術教育政策への大きな批判も込め、自らが学んだ西洋美術を正しく伝える場として開校されたのである。さらにそういった「和洋折衷」と考える作品を、自らの作品の上で批判し、公に問うたのが、明治23年(1890)の第三回内国勧業博覧会に出品された《騎龍観音》であった。帰国後すぐに発表した「絵画改良論」(注16)がまさに反対演説であったように、「美術につきての一家言」(注17)など原田が残した言論による批判は、「和洋折

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