鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―326―衷」様式を主導し、東京美術学校設立までを支えた当事者であるフェノロサと初代校長となった岡倉天心、そして彼らの指導により生まれた作品に多くが向けられている。具体的には、明治19年(1886)の鑑画会第2回大会に出品された狩野芳崖の《仁王捉鬼》〔図6〕や橋本雅邦の《弁天》〔図7〕のような作品が、ちょうど《騎龍観音》を描き出す頃に頭にあったと推測される。これら狩野派の技術を用いて仏教由来の画題を描きつつ、遠近法を取り入れたり、ヨーロッパから取り寄せた顔料を使ったりして新味を加えた作品を、原田は安易な「和洋折衷」だとして批判していたのであろう。それゆえ原田は《騎龍観音》において、自らが西洋で学んだ技術を大画面で堂々と発揮する際に、同種の画題を選択しつつ、図像については、関係は不明ながら同じ護国寺に所蔵される《普門本三十三身図屏風》中の一図〔図8〕など、典拠に忠実にあるという制約を自らに課した。つまり原田は、西洋に対しても日本に対しても忠実であろうとしたのである。もちろんそれは油彩画による効果をより一層強調して見せるためでもあり、さらには日本的なタブローを生み出すための大きな挑戦でもあった。絵画技法書の翻訳と風景画もうひとつ西洋絵画の移植者として原田が志した重要な仕事がある。それが、フランス語で書かれた技法書の翻訳と出版である。このことは、明治42年(1909)、没後10年の記念展が開催された時に、三宅克己が次のように語っている。「原田君の著述に遠近法と云ふものがある。仏文の本を土台にして書いて、応用を日本の景色で示すと云ふので、写生をしてゐた。それが纏まらない中に病気になつた。稿本は今でも遺つて居る。」(注18)幸いにも恐らくはまさにこの稿本と思われるものが現存しており、今回、所蔵者である東京国立博物館の協力もあってその全体を調査することができた(注19)。資料は、「フランス語の原書」1冊〔図9〕と「下書きノート」1冊〔図10〕、翻訳の草稿が「目次」〔図11〕、「第一編」から「第五編」〔図12、13、14、15、16〕と「陰影法」〔図17〕の7冊、そして「陰影之像」〔図18〕と書かれた包み紙に挟まれた挿絵の下書き43点で構成されている(注20)。三宅の言う通り、草稿は「陰影法」の途中で未完のまま終わっており、病気のために完成、刊行することができなくなったことが推測される。フランス語の原書は、アルマン・カッサーニュの『遠近法の実践論』(注21)〔図9〕で、1884年にパリで出版された。扉〔図19〕にはサインとともに、「Paris」「Janv. 87.」という書き込みがあり、原田がミュンヘンからの帰国途中、滞在したパリで入手した

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