注安藤仲太郎「明治初年の洋畫研究 白馬会講筵に於て」『美術評論』25号、畫報社、1900年、 宮本久宣主編「原田直次郎作品集」『森4外と美術』展図録、森4外と美術展実行委員会、■増補『大島人物誌』(笠岡市立図書館、1973年)に原田家のことが詳しく記されている。また―327―ことが分かる。原田は目次から始まり順番に文章を翻訳しながら、豊富に挿入された挿絵も描きおこしていっている。西洋絵画の日本への移植を考える時に非常に重要な意味を持つ資料であるが、詳細な研究は今後の課題としたい。ひとまず指摘しておきたいのは、本文の翻訳はもちろんだが、原田は挿絵についても「翻訳」しようと試みていたことである。もちろん単純な線や図形はそのままだが、例えば洋装の婦人が描かれた図をまずはそのまま写した上で、原田は赤ん坊を背負った和服の日本人に描き直し、その上に貼っている〔図20、21〕。また原田が三宅に語った「応用を日本の景色で示す」という言葉は、原書の挿図〔図22〕といくつか残されている原田の小品風景画とを比べると、確かに実践されていることが分かる。原田は《村の風景》〔図23〕など、木の茂った田舎道を小さく描かれた人物が進んでいく、という構図の風景画を数点手がけているが、それらは単なるスケッチではなく、原田が試みた風景表現における西洋絵画の日本的翻案の実践でもあったともいえそうだ。独特の幻想的な雰囲気を持った、日本とも西洋とも判別し難い風景表現は、西洋絵画を日本的に読みかえる過程で生まれたのである。おわりに以上、本稿では作品と関連資料の調査、整理をふまえた上で、原田直次郎の全体像を振り返った。帰国後、原田が日本で十分に活躍することができた期間は10年にも満たない。しかしその間になした、鍾美館の開設、言論による啓蒙活動、大作《騎龍観音》の制作と発表、肖像画の制作と発表、そしてフランス語の技法書の翻訳などは、原田が西洋絵画の移植者たるべく強い思いを持っていたことを物語っている。今回の調査では主眼とした原田については、新たな作品の紹介や業績の整理など当初の目的通りに成果をあげることができた。しかしながら原田が同時代の画家たちに与えた影響など、原田の仕事を美術史の中に投げ返し、詳細に検討するまでにはいたっていない。今回の成果を生かしながら、今後さらに調査、研究を進めていきたいと考えている。11〜16頁(白馬会繪畫研究所編『美術講話』蒿山房、1901年、68〜76頁に再録)2006年、219〜238頁
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