■原田豊吉は日本地学の若き指導者として重要な役割を果たすはずであったが、結核により明治27年(1894)に若くして亡くなっている。妻にはドイツ人と日本人の間に生まれた女性を迎え、娘の信子はのちに有島生馬に嫁いだ。■安藤仲太郎の追懐『原田先生記念帖』原田直次郎氏記念会、1910年、49〜51頁■「習作(木炭画)故原田氏筆」として『美術新報』9巻3号、1910年、14頁に掲載■ドイツにおける原田の動向については、明治19年(1886)に出会い帰国後も親しく交流を持った森4外が『独逸日記』の中で記しているほか、同年に数日だけミュンヘンに滞在した近衞篤麿が、手記「南独漫遊草」(近衞篤麿『蛍雪余聞』中巻、財団法人陽明文庫、1939年、375〜413頁)の中で記録している。ただし明治17年(1884)から明治18年(1885)については、アカデミーの学籍簿(横川善「原田直次郎とドイツ婦人画家 C. Pfaff」『4外』29号、森4外記念会、1981年、104〜125頁に収載)以外は現在のところ資料がない。■明治22年(1889)1月25日付けで、原田直次郎が東京府知事宛に提出した「私立学校設置願」が東京都公文書館に残されており、東京都公文書館編『都史紀要』17、1968年、33〜38頁に書き起こされている。これまで原田の画塾については、筆者も含め「鍾美館」と「鐘美館」の表記が混乱、併用されてきた。『都史紀要』においては、名称を「鐘美館」と翻刻しているのだが、原本は「鐘」の字の部分がにじんでいて判読が難しい。しかし同じく東京都公文書館に保管されている、明治28年(1895)1月14日付けの「廃校御届」は、「鍾美館長 原田直次郎」名で提出されている。既に森4外が編集に当たった上記『原田先生記念帖』においても両方が使用されているのだが、「美をあつめる館」という意味で、今回やはり「鍾美館」の表記が正しいのだろうと判断した。自戒を込めて記しておきたい。原田直次郎「絵画改良論」『龍池会報告』第31号、1887年12月20日、29〜44頁Elmar D. Schmid, Julius Exter: Aufbruch in die Moderne, München: Klinkhardt & Biermann, 1998, p.16原田直次郎と肖像画について詳細は、先に成果の一部として発表した拙論、宮本久宣「原田直次郎の肖像画をめぐって」『「森4外と美術」展図録』森4外と美術展実行委員会、2006年、264〜271頁を参照「職業案内(三)西洋画家」『國民新聞』790号、1892年8月13日森4外「再び原田の記念会に就いて」『國民新聞』、1909年11月29日。『4外全集』26巻、岩波注■前掲、原田直次郎「私立学校設置願」豸山隠士(原田直次郎)「美術につきての一家言」『國民新聞』770号(1892年7月21日)、772注前掲注前掲 三宅克己の追懐、注■前掲書『原田先生記念帖』、66頁■東京国立博物館へは戦後、古書店から納入されている。それ以前の来歴は不明ながら、翻訳草稿の各表紙裏に、「明治四十二年」の年記と「遺稿」という書き込みがあることから、没後10年の記念会を機会に一度は日の目を浴び、その後いずれかの関係者がまとめて所蔵していたと考えられる。 注 前掲『森4外と美術展』カタログにおいては、翻訳草稿のうち「陰影法」の写真と記載が―328―原田直次郎の孫である梅村益枝氏、ひ孫である喜多村安正氏、原田豊吉のひ孫である原田公敬氏からもご教示を得た。書店、1973年、382〜383頁に再録号(同7月23日)、773号(同7月24日)に分載
元のページ ../index.html#336