鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
347/543

―339―のブルジュという町には、近隣の修道院の援助を受け、楽器奏者として生計をたてる盲人の生活共同体があった(注15)。17世紀初頭に誕生したと思われるこの共同体はしかし、監禁政策と歩調を合わせるように1640年頃から活動を縮小しはじめ、その10年後には記録から足跡を消したのである。17世紀の後半にヴィエル奏者や貧民が絵画の主題から姿を消したのも、この政策と無縁ではないだろう。街角での物乞いは禁止され、寄付や施物は施設に対して行うことが義務づけられた。相手の顔が見えない慈善の奨励にはもはや貧民の「イメージ」は必要なく、その役割は慈愛の擬人像で十分だったと思われる。このような「閉じ込め」政策と絵画の関係は、貧民の監禁に断固として反対したセビーリャの状況と比較することによってより明白になるだろう。異議を唱えたのはドン・ミゲル・マニャーラだが(注16)、彼の友人で自らも慈善事業に深くかかわったムリーリョは貧しくも満たされた様子の「神の子」、すなわち孤児たちをモデルとした作品を晩年の1680年代まで描き続けた。これはフランスでラ・トゥールやル・ナン兄弟の主題がおそらく理解されなくなり、彼らが共に忘却の闇に葬り去られたことと好対照をなす。また《楽師の集いの断片》〔図12〕が辿ってきた歴史も示唆的である。現在、この奏者は目を開いているがそれは後筆である。時期は定かでないが、18世紀の田園趣味の影響を受けた改変だと推察される。つまりもとの作品の意味を解することなく、宮廷人が扮するヴィエル奏者に合わせ見栄えが良くなるよう全体的に補筆が施されたのだろう。このような後世の補筆にも「盲目のヴィエル奏者」の主題が経験した歴史の足跡が残されている。結び以上のように、「盲目のヴィエル奏者」は16−17世紀における「盲目」の象徴性、物乞いに対する宗教的、社会的感受性の変化を敏感に受け止めた主題である。特にラ・トゥールによる単身像の「ヴィエル奏者」は美徳としての「貧しさ」の観念や慈善と救済の共存関係、神秘主義に基づく魂の目の優位性など、カトリック改革期の新しい思想を体現した作品といえる。そして彼が取り上げた3つの異なる主題は、近代の黎明期にあって、社会の悪としての貧民から理想化された「貧しさ」の象徴へと変容した彼らの価値の忠実な証言であり、貧民を取り巻く環境が宗教的慈善から社会福祉制度へとドラスティックな変革を迎えるなかで、わずか数十年しかその意味を解されなかった。ラ・トゥールの「盲目のヴィエル奏者」は、このように「慈善」の観点から読み解くことによってこそ、その失われた意味と機能をようやく取り戻すことができ

元のページ  ../index.html#347

このブックを見る