―347―との共通箇所であり、対観表の半数近くを占めている。章句自体はキリストが聖霊によって喜びにあふれ、天地の主である父に受かって語る場面である。この章句をはじめとして、対観表の内容と雄牛の象徴的な意味とを呼応させることは難しいが(注6)、同対観表において、このようにルカ福音書の章句が多く重複されることも、福音書記者像表現の差の一因と考えることもできるだろう。第四の対観表では、マタイ、マルコ、ヨハネは獣のシンボルで表されている(図1内、f.399v.)。鷲のヨハネは獅子のマルコの差し出した右の前足にくちばしを触れ、イソップ寓話の一場面のような様相を呈している(注7)。しかしこれを対観表の章句から類推すれば、ベタニアで女がキリストの足に香油を塗り、髪の毛で拭い、接吻をした場面を関連付けられよう〔表3〕。キリストは「ユダ族の獅子ダビデのひこばえ」(ヨハネ黙示録5章5節)と呼ばれ、獅子に喩えられる。この場面は、マタイおよびマルコによる福音書で香油はキリストの体と頭に注がれているのに対し、ヨハネ福音書のみが、女は香油を「足」に注ぎ、「髪の毛」で拭いているとしている(12章1−8節)。さらにその女をラザロの兄弟のマリアと同定しているのもまたヨハネ福音書のみである(11章2節)。こうしてヨハネ、すなわち鷲を女と結びつけることはそれほど無理ではないだろう。さらに、杖を持って立つマタイは対観表に続く新約聖書の挿絵の、伝導するパウロの肖像と共通するものであり、伝道者として解釈できる。この香油の場面は、すべての福音書に記載されているが、とりわけ第四の対観表に共通項として引用された章句は、「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界じゅうどこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マタイ26章12−13節)という箇所である。これらを考慮しても、第四の対観表は、獅子と鷲に象徴される香油の場面をマタイが目撃する、その様子を描写していると考えられるだろう。第五の対観表最初のページでは、獣頭人間型で、共に有翼のマタイとルカが右手を高く伸ばして会話をしている様子で描かれる(図1内、f.400)。ルカが配された小アーチの枠内に、銘文が刻まれている(図1内、f.400矢印部分)。銘文は、“XPXP…et emanuel(sic)nobis com ds”「キリスト、キリスト、そしてインマヌエル、神はわれらとともにおられる」(拙訳)と確認できた。これは、主の天使が、ヨセフにマリアが身ごもったことを受け入れるよう告げた言葉に由来するものである(注8)。まさにマタイ福音書のマリアの受胎をヨセフが知る場面(1章18−19節)で始まるこの対観表と対応していると言えよう〔表4−a〕。第五の対観表二番目のページは、翼の
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