鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―348―ない獣頭人間型のマタイとルカが対峙している(図1内、f.400v.)。マタイは雄牛のルカの眉間の辺りに細長い棒状のものを向けている。これは一見、闘牛のシーンを思わせ、この棒が槍などの武器であれば、この雄牛は犠牲の象徴と解釈できるだろう。まさしく対観表の章句、「体を殺しても魂を殺すことの出来ない者をおそれることはない」(マタイ福音書10章27−33節)、〔表4−b、章句の番号は93〕という迫害の予告を受ける場面と対応する。一方、写本が摩耗しているために不鮮明であるが、棒の細さやマタイの持ち手の描写などを観察すれば、この二者は対峙しているのではなく、目の治療をしている場面、対観表の章句にもある「盲人の治療」とも考えられる〔表4−b、章句の番号は119〕。この「盲人の治癒」の場面は例えば『920年の聖書』のマタイ福音書の扉絵部分に描かれており、そのことも傍証となりうるだろう(注9)。第五の対観表最後のページは有翼、獣頭人間型のマタイとルカである(図1内、f.401)。マタイに手を引かれるかのようにルカの上半身はマタイの方へ前傾している。手を取り合う、というよりも、明らかに手首を掴んでいる描写である。『1162年の聖書』でもこの点は忠実に踏襲されている(f.67)。これは手を掴むという類似した身振りの図像、ビザンティン美術で周知の「冥府降下」を彷彿とさせるが、対観表の章句との関連性は薄い。章句は救済や治癒といった奇跡伝よりも、エルサレムに入城し、兄弟を諌め(マタイ福音書18章15節)、律法学者やファリサイ派の人々を批難する(マタイ福音書23章5節、24章12−39節)など、厳しい内容が多い〔表4−c〕。このことからも手を掴むマタイとルカは、弟子を厳しく導くキリストとそれに従う弟子とを象徴していると考えることもできるだろう。第六の対観表最初のページではマタイとマルコは獣のシンボルで表されている(図1内、f.401v.)十字の印が付されたU字型のものを手にしたマタイに対して獅子は、後ろ足で立ち上がろうとするかのようだ。獅子は詩篇では悪の象徴と喩えられている(注10)。『1162年の聖書』においても同様の表現が繰り返され、そこではマタイが手にしているのは明らかに十字のついた聖書として描かれている(f.67v.)。獅子が悪魔と解釈され、マタイが聖書を掲げているとするなら、この場面はキリストの「荒野での試み」を象徴していると考えられる。該当する対観表の章句〔表5〕は試みの最後に、聖書の言葉によって、キリストが悪魔を退ける場面に相当する(注11)。マタイがアーチの弧の淵まで獅子に迫っている様子も印象的である。以上、対観表の福音書の章句を手がかりに、福音書記者表現の解釈を試みた。対観表全体を通じて『1162年の聖書』と比較すると、『960年の聖書』の表現上の多様性は傑出している。『1162年の聖書』は『960年の聖書』の図像を踏襲しているが、17ペー

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