鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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■ジローナ大聖堂宝物館、Núm. Inv.7(11), f.16.■ルカによる福音書の章句119は「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知るものはなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかにはだれもいません。」(10章22節)である。これに対して、この雄牛の描写はあくまで草を食む、獣として描かれている。雄牛は『960年の聖書』に多く登場するものの、このような草を食む描写は他では見られない。他の写本で草を食む雄牛が描かれるダニエル書(4章12−13節)の挿絵においても、『960年の聖書』写本では、その直前の鳥や樹木と獣の場面(7−9節)が採られ、獅子と牛は並んで配されているだけである(f.319v.)。この挿絵は「獅子も牛もひとしく干草を食らう」というイザヤ書11章7節の神の平和と結びつけて解釈される。またこの第三の対観表の雄牛の草を食む様子は『920年の聖書』の対観表の草を食む獅子に類似している(図2、中央。他ff.149, 150v., 152v. にも同様の描写がされている)。この獅子の図像が雄牛にとって換わられたという可能性も考えうるが、それは今後の課題とし、ここでは形態的な類似を指摘したい。■「見よ、おとめが、身ごもって、男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と。この図像的な類似性は乏しいものの、盲人の治癒が奇跡として、「受胎告知」「聖母子」「サマリア「あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んで行く」という詩篇の91章13節を主表5の灰色の部分はマタイ福音書4章11節、マルコ福音書1章13節であり、ともにサタンがキ『920年の聖書』も13ページ構成であり、『960年の聖書』の対観表構成は同時代のイベリア半島J. Williams, op. cit., pp. 137−145.C. A. Nordenfalk, “An Illustrated Diatessaron,” The Art Bulletin, 55, 1973, pp. 522−546.モーガン写本を中心に、不完全なものも含め8写本に現存する。それぞれマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの順に、左ページに獣、右ページに有翼の獣頭人間型が対となって、計8ページ構成となっている。J. Williams, Early Spanish Manuscript Illumination, 1977, New York, p. 55. 『960年の聖書』においては旧約聖書の挿絵は92点と膨大であるが、新約聖書は4点のパウロの―351―■ウィリアムズは鷲と獅子とが登場するイソップ寓話をソースの候補として挙げている。しかし報告者が確認したところそれらの話に関連性は見られず、現存する図像もないため、先行する指摘として紹介するに留める。J. Williams, Illustrations of the León Bible of the Year960: AnIconographic Analysis(Ph. D.),1962, University of Michigan, vol. I, p. 155.四つの活き物と福音書記者を結びつけるのはエイレナイオス以降の伝統であり、ベアトゥスもそれに従って註解で大部をさいて論じている。G. Echegaray, L. Campo, G. Freeman(eds.), Obrascompletas de Beato de Liébana, Madrid, 1995, pp. 293−345.名は「神がわれらとともにおられる」という意味である。(マタイ福音書1章22−23節)の女」とともにキリスト伝を代表する四つの場面の一つとして選択された(f.201v.)。題とした象徴表現である。リストから離れ、勝利した場面である。においても特別であった。A. M. Friend Jr., op. cit., p. 619.肖像のみである。151, 153v.)など、章句と福音書記者のシンボルとの齟齬が指摘されている。A. M. Friend Jr.,“The Canon Table of the Book of Kells,” Medieval Studies in Memory of A. Kingsley Porter, vol. I,Cambridge, 1939, pp. 611−641.

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