鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
364/543

>異国を見る眼―356――朝鮮通信使にまつわる絵画を通した日韓比較文化研究―研 究 者:西南学院大学 国際文化学部 専任講師  尹   芝 惠はじめに江戸幕府に対する唯一の公式の外交使節団である朝鮮通信使は、1607年から1811年まで12回にわたって来日した。総勢400名を超える大使節団が、半年以上の歳月をかけてソウルと江戸の間を往復したのである。朝鮮通信使の随行員たちは、日本各地の儒者らと筆談唱和などで交流を持った。一方、庶民は接触を禁止されたが、行列を見物することは許されていた。このため、朝鮮通信使の来日は、日本では様々な方面に影響をおよぼした。美術の領域では、主に二つの影響が考えられる。第一に、朝鮮人や行列が、ある種のエキゾティシズムをともなって、新たなモティーフになった。第二に、随行画員の金有声と池大雅との交流の例が示すように、画法や画術に関する交流が持たれた。本稿では、このうち第一の点に注目し、とりわけ随行した楽隊と彼らの衣装に焦点を当てることで、当時の日本における朝鮮通信使ないし朝鮮人の描き方が、ジャンルによって異なる理由を明らかにし、加えて、その描き方が変化していく過程と変化の意味を明らかにしたい。1.楽隊の存在理由朝鮮では、王侯貴族の行列には常に楽隊が随行した。国王の親書を奉じる朝鮮通信使の行列も同様であった。この楽隊には、主に四つの役割があったと言われている。第一に、出発や出航の合図をする。第二に、行列のリズムを取るための行進曲を奏でる。第三に、身分の高い人物が通ることを周辺住民に先触れする。第四に、行列が休息をとる際に慰安を目的とした音楽を奏でる。こうした楽隊は、当時の日本人の目にどのように映り、またどのように表現されたのだろうか。次章からは作品の検討に入りたい。2.記録画に描かれた楽隊日本の絵画を検討する前に、比較の基準として、朝鮮人の手による記録画を見ておきたい。第4回の朝鮮通信使行を描いた《仁祖14年通信使入江戸城図》である(注1)。楽隊には、赤系の服を着て羽飾りの付いた帽子をかぶる吹鼓手の管楽器奏者〔図1−

元のページ  ../index.html#364

このブックを見る