鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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浮世絵―庶民による鑑賞17世紀後半には、江戸の庶民文化の成熟と共に、庶民が鑑賞する絵画としての浮世絵が誕生する。その誕生当初、第7回の朝鮮通信使の来日を描いたとされるものに、―358―鮮通信使を描いた《江戸図屏風》には、江戸城内で贈答品を点検する人物(注3)、江戸城に向かう輿に乗った正使らしき人物が描かれている。これらの人物の服装は当時の朝鮮のものに近くなっている。この頃になると、朝鮮通信使がなじみのものとなり、異国らしさを強調する必要がなくなったのであろう。しかし、まだ楽隊は描かれていない。第5回の朝鮮通信使を描いたと思われる光明寺本《洛中洛外図屏風》〔図4〕になると、方広寺周辺に、楽器をもつ人物が描かれる。だが、服装の点では、楽人たちと他の随行員たちとが区別して描かれることはない。第6回の朝鮮通信使を描く《朝鮮国使歓待図屏風》にも、その右隻に大きな太鼓をかつぐ人物と喇叭手が描かれ、行列の最後尾には8人の楽人たちが描かれるが、いずれも服装の点では他の随行員たちと区別して描かれてはいない。守護本《洛中洛外図屏風》にも、おなじく二条城周辺に楽人が描かれているが、服装の点では、他の随行員たちと区別して描かれてはいない。制作年代が不明ではあるが、今井町本《洛中洛外図屏風》では、二条城周辺〔図5〕に楽人が描かれる。この作品においては、楽人たちは他の随行員とは異なる赤系の服を着た姿で描かれている。屏風画の発注者は、主に支配層たる武士であり、描かれる朝鮮通信使は、外国の使節団という面が強調された。そのため、画家の視線は通信使一行が訪れた場所や彼らが持参した贈答品に集中し、楽隊にはさほど注意が向けられていない。服装はもちろん、楽器でさえ適当に描かれている。《朝鮮通信使行列図巻》〔図6〕や『朝鮮人来朝記』がある。これらにはすでに楽人の姿が描かれている。写実的とまでは言えないが、随行員の種類や衣装、あるいは旗や槍や楽器といった持ち物など、細部にまで画家の目が行き届いている。第8回の使節が来日して以降、多くの浮世絵版画に朝鮮通信使が描かれている。これから、それらを年代順に見ていくが、錦絵が創始される以前の浮世絵版画には色彩上の制約があり、この点で写実性を問うことには意味がないことは言うまでもない。浮世絵において、朝鮮通信使は当初、行列全体を描く形で表現されていた。描く者も見る者も、行列の形をしているからこそ朝鮮通信使として認識したのであろう。だ

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