―360―「カッ」のようなものをかぶり、首周りには襞矜をつけている。る。朝鮮通信使が逗留した江戸における祭では、実際の行列に近い姿が再現されていたことが見て取れる。だが、同様に朝鮮通信使の来日が途絶えて以降に描かれた『張州雑誌』〔図12〕における楽隊の衣装は、色彩の点では赤系と青系であるものの、ボタンや襞衿が付けられるなど、事実とは異なる装飾が施されている。さらに、朝鮮通信使行列の旅程に入っていなかった地域の祭で、通信使の来日が途絶えて以降に描かれた作品では、異国人らしさを強調するデフォルメが過剰になる。《八幡神社祭礼絵図》では、楽隊の服装は青・赤・黄の三原色で再現され、大きな襟飾りがつけられている。《土浦町内祇園祭礼式真図》に描かれた楽隊の服装には、オレンジの文様が施され、帽子もかなり誇張されて再現されている。楽人ではないが、馬上の人物の服装には襞衿が付けられている。また、喜多川歌麿の《韓人仁和歌》〔図13〕は、吉原の遊女が朝鮮通信使の楽隊と旗手に仮装した姿を描いたものである。彼女らは、朝鮮人男性の室外用の冠であるこのように、時代を経るに従って、日本人が表現する楽隊の姿は徐々に異国性を強調する姿へとデフォルメされてゆく。なぜであろうか。楽隊は聴覚的な刺激に満ちており、行列の中でもとりわけ庶民の興味を引く対象であった。このことが、楽隊は衣装に至るまで派手なものという固定観念を、庶民の間に生み出したのではないか。襞衿を付けたその姿は、初期の屏風画において、異国らしさを強調した、南蛮人風の朝鮮人を思い起こさせる。だが、表現様式が退行したわけではあるまい。楽器を手にした異国情緒あふれる姿こそが、当時の庶民が記憶した朝鮮通信使だったのである。5.葛飾北斎の描く朝鮮通信使こうした庶民のイメージを巧みに利用したのが、葛飾北斎である。『富嶽百景』の《来朝の不二》〔図14〕には、右先頭に二人の馬上の小童が、その後ろに喇叭などの楽器を持った楽隊が描かれている。楽人も旗手も同様の服装をしているが、襞矜が付けられている。《東海道五十三次》の〈由井〉と〈原〉に描かれた朝鮮人の服装にも、同様に襞矜が付けられている。また、〈原〉に描かれた旗手や馬上の人物がかぶる帽子の羽飾りは、実際のものとは異なる様態で付けられている。北斎は朝鮮通信使を実見したことがない。しかし、彼の画術をもってすれば、模写などに頼ることで、写実的な朝鮮通信使を描けたはずである。にもかかわらず、彼はそうはせず、襞矜をつけた朝鮮人を描いた。北斎は浮世絵師として、流行を敏感に察
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