注《仁祖14年通信使入江戸城図》の楽隊の構成員は以下の通りである。―361―知し、庶民の求める作品を世に送り出す必要があった。浮世絵師としての北斎の仕事の第一歩は、庶民の関心事や流行を敏感に察知することだったのである(注5)。北斎の描く朝鮮人の多くは、襞矜の付いた服を身にまとい、楽器や旗を手にしている。これこそが、当時の民衆が記憶し、また切望した、異国からの使節団、朝鮮通信使行列だったと言えよう。おわりに本稿では、朝鮮通信使の楽隊が日本人にどのような印象を残し、表現されてきたかを明らかにしてきた。朝鮮通信使が日本の絵画作品に登場したのは、御用絵師の手による屏風画が最初であるが、その際には、二条城や江戸城などの主要な施設を背景に外国の使節団を描く、ということが第一義であった。それゆえ、朝鮮通信使一行の服装は写実的なものとは言い難く、楽隊は当初は描かれることさえ無かった。朝鮮通信使の来日が回を重ね、行列そのものが珍しいものでなくなると、楽隊にも目が向けられ、描かれるようになるが、注意深く観察されることはなかった。庶民の嗜好品である浮世絵においては、その成立当初から朝鮮通信使が主題として取り上げられた。初期には行列全体が描かれていたが、その際には必ず楽隊が描かれ、やがては楽隊のみが一枚摺版画として刊行されるようになった。また、ほぼ時を同じくして、やはり庶民の娯楽である祭に、朝鮮通信使仮装行列が登場するようになるが、その際にも必ずと言ってよいほど楽隊に扮したものが含まれた。庶民にとって通信使と楽隊は同格であったと言っても過言ではないだろう。そして、初期の浮世絵や祭においては楽隊の衣装は写実的ではないものの、さほど派手なものでもなかった。しかし、朝鮮通信使の来日が途絶えると、祭の衣装は徐々にデフォルメされ、異国風を演出するようになっていった。こうした姿に、庶民が受けた生の印象を見て取ることができる。そして、派手な衣装としての楽隊の仮装が、ひるがえって浮世絵に影響を及ぼすようになる。北斎が描く朝鮮通信使は、襞矜やボタンを付けた、実際のもの以上に華美に異国風にアレンジされた姿で描かれている。こうした華美な姿こそが、当時の庶民が記憶し、また同時に期待した異国人の姿だったと言えるのではないだろうか。
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