ゴンブリッチが『藝術と幻影』において「予想した偏見preconceived prejudices」という概念を提出しているが、江戸時代の日本において、朝鮮人を描く様式が確立される以前には、外国人を表現する際には南蛮人を描く様式が踏襲されていたのである。裾の広がったズボンや襞矜(gorgeira)の付いた上着は、いわば外国人を現す「持物(アトリビュート)」であった。拙論「浮世絵に描かれた朝鮮通信使」(『藝術研究』第17号、広島芸術学会、2004年)を参照されたい。■初期の屏風画において、朝鮮通信使が、秀吉ゆかりの方広寺や宮城である内裏あるいは幕府の権力の象徴である二条城などを背景として描かれていること、あるいは江戸城内に土産物を並べる姿として描かれていることなど、朝鮮からの朝貢を連想させる表現があえてとられていたと思われる。辛基秀、『朝鮮通信使―人の往来、文化の交流』、明石書店、1999年、参照。■朝鮮通信使来聘に合わせて出された御触書には、必ず、火事に対する用心、町家や木戸や橋の修繕と掃除、朝鮮人との品物の売買の禁止、そして見物の仕方が指示されている。見物の仕方に関しては、例えば、正徳元年七月のお触書に以下のようにある(引用は『御触書寛保集成』、岩波書店、1997年による)。■有名な「富嶽三十六景」も、当時庶民の間で流行していた富士講との関わりが指摘されている。(1644−1648)年間以降 岐阜市光明時蔵―362―図版目録図1《仁祖14年通信使入江戸城図》部分 作者不詳 30.7×595.0寛永13(1636)年 韓国国立*吹鼓手:錚2名、喇叭6名、螺角6名、太平簫6名、銅鼓3名、點子3名、鼓6名。*細楽手:鼓3名、杖鼓3名、K6名、奚琴3名、笛3名。*典楽2名。一、朝鮮人通り候刻、二階又ハ窓より見物仕候ハゝ、簾なと掛け、行儀能見物可仕候、勿論物干にて見物仕候儀も不苦事、但、屋根にて見物仕間敷事、一、見せ店並二階にて見物仕候とも作法能仕、高声高笑ゆひさしなと不仕、物静に見物可仕相互矛盾的に、簾幕屏風抔にて仕切り、男女僧尼等わかり罷在、見物可仕候、交り居申間鋪候、給物なと取ちらし不申、不行儀成体不仕、喧嘩口論酔狂は不及申、惣て物噪敷仕間敷事、附、色絹緞子幕金銀之屏風所持仕候ハゝ、勝手次第用可申事、前田恭二『やさしく読み解く日本絵画』、新潮社、2003年、参照。中央博物館蔵図2《寛永朝鮮人来朝図》部分 作者不詳 32.1×984.2寛永元(1624)年 韓国国立中央図書館蔵図3 バーク本《洛中洛外図屏風》部分 作者不詳 六曲一隻 元和5−8(1619−1622)年 バークコレクション蔵図4 光明寺本《洛中洛外図屏風》部分 作者不詳 六曲一双(右隻)149.0×342.3正保図5 今井町本《洛中洛外図屏風》部分 作者不詳 六曲一双(左隻)155.0×362.0制作年代不明 個人蔵図6《朝鮮通信使行列図巻》部分 作者不詳 24.8×231.8天和2(1682)年 辛基秀コレクシ
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