鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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@松本楓湖研究―379――制作の実像解明を中心に―研 究 者:茨城県近代美術館 副主任学芸員  中 田 智 則はじめに松本楓湖に関する評価は三つの観点からなされている。一つには『幼学綱要』(明治14年)、『婦女鑑』(明治20年)をはじめとする教科書、『風俗画報』や『絵画叢誌』などの雑誌等への挿絵の原画制作者、さらに自ら編集した『日本歴史画報』の発行に対しての評価である。これらは歴史事象を国民に知らしめるという点で、明治前半期の歴史教育とも相まって社会的にも高い評価を得ている。さらに、安雅堂画塾を主催、自由主義教育を採って、今村紫紅、速水御舟、小茂田青樹といった次世代、大正から昭和前半期の日本画壇を担う人材を育てた教育者としてもことさら高く評価されている。そして、師である菊池容斎の歴史画を継承しそれを次世代へ橋渡しした人物と評価されている一方で、容斎の枠を大きく出ることのない画家としての位置付けがなされていることも事実である。そのためか、安雅堂画塾の塾生たちに焦点を当てた展覧会の開催や、近年では菊池容斎の研究の進展、展覧会の開催など、楓湖の師弟への研究は多くなされているものの、楓湖に関しては研究が進んでいないのが実情である。ここでは、第三の評価、容斎の画風継承者としての楓湖の存在について焦点を当て、その画風を継承しながらもいかに楓湖独自のものを創り出そうとしていったのか、また渡辺省亭や鈴木華邨など他にも容斎の弟子がいる中で、何故に楓湖が容斎の歴史画を継承していったのかといった背景まで含めて考えていきたい。菊池容斎・沖一峨の画風継承「蒙古襲来之図」(明治28年・静嘉堂文庫美術館蔵、明治33年・茨城県立歴史館蔵、個人蔵の3点が知られる)や「宮廷飼熊図」(明治期・茨城県立歴史館蔵)に代表されるように、楓湖は図像の多くを菊池容斎の作品から得ていることが従来から指摘されている。この容斎の図像の引用は、早くも明治2年制作のウィーン美術史美術館所蔵画帖にも認められる(注1)。楓湖は明治元年に容斎に師事したとされており、ごく早い時期からこのような傾向をもっていたといえよう。その後も、「牛若」(明治7年・東京国立博物館蔵)〔図1〕や「小塚原図」(明治初期・東京都江戸東京博物館蔵)などでも容斎の図像の借用は行われている。「牛若」は容斎『前賢故実』中の「佐藤

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