―380―「能楽図」「足柄山図」など図像上容斎の影響が大きい作品に関しても、金彩も用いた忠信」や「文屋巻雄」からのポーズの引用に留まるが、「小塚原図」やウィーン美術史美術館所蔵画帖中の「王子田楽」では、容斎作品の中心部分を抽出した模写と呼べるものとなっている(注2)。楓湖は図像にとどまらず、描写や彩色に関しても容斎風をよく継いでおり、枯淡な筆遣いと淡泊な色彩による作品が広く知られている。しかし、公的な仕事の作品では濃密な色彩も見られることは注目する必要があるだろう。ウィーン美術史美術館所蔵画帖〔図2〕や宮内省内匠寮旧蔵の「能楽図」〔図3〕「足柄山図」(共に東京国立博物館蔵)に、濃密な色彩による表現が見られるのである。前者は明治天皇からオーストリア帝国皇帝ヨーゼフ一世に贈られたものと推定され(注3)、後者は宮内省旧蔵であり、どちらも天皇(宮内省)からの依頼で描かれていることがわかる。天皇関係の仕事とそれ以外の仕事で色彩に違いが生じる理由は、さらなる資料の発見がなければ説明するとは難しいが、このような色彩感覚を養ったのは、容斎の下での修業の成果ではなく、沖一峨に師事したことによるものと考えられるのである。一峨に関して、その没年は従来安政2年(1855)とされていたが、文久元年(1861)とする説が近年提唱された(注4)。楓湖は嘉永6年(1853)、14歳で一峨に入門し、その没後佐竹永海に師事したとされていることから、一峨に師事したのは3年に満たないと考えられていた。しかし、一峨の没年が文久元年とすると、22歳になるまでの8年間師事していたことになり、その画風の形成に一峨の影響大であったと想像できる。一峨は狩野派の画家で、鳥取藩の御用絵師を勤めている。大和絵風の極彩色による武者絵など歴史的主題の作品を手がけ、また琳派や南蘋派に学んだ花鳥画を描くなど幅広い作風を見せている。宮内省内匠寮旧蔵の「貝殻図」〔図4〕「錨に千鳥図」に見られる写実的な表現は、西洋のものというよりも南蘋派風のものと理解した方がよく、一峨門での画風の形成を物語っていよう。さらに、ウィーン美術史美術館所蔵画帖や、宮内省内匠寮旧蔵の極彩色による華やかな作風は、一峨作品に通じており、一峨門で学んだ色彩、画風と認められる。安政2年(1855)、楓湖が16歳で描いたとされる「洋峨」号の)善寺本堂天井画について、従来から一峨に学んだ楓湖の特徴が指摘されているが、この作品だけで楓湖の初期の画業を説明していくことはできないであろう。しかし、一峨との関係に関して重要な問題が残されている。楓湖存命中のものも含めて、年譜の上では、楓湖は19歳で尊皇運動に転じているが、それ以前に永海に師事していたとされているのである。一峨没年文久元年説を採ると22歳まで一峨に師事し
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