鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―381―たことになり齟齬が生じることから、一峨の没年、永海への入門年、あるいは楓湖が尊皇運動に転じた時期などについて、研究の進展が必要である。いずれにしろ、実作品の上からは楓湖の色彩感覚は容斎師事以前に培われたことが指摘できる。楓湖による写実表現楓湖による容斎の画風の継承は、粉本主義ともいえるものであるが、そうした中でも楓湖は新時代にふさわしい新たな要素、写実表現を吹き込もうとしていた。ここでは、楓湖による写実表現を実際の作品に即して見ていきたい。明治43年(1910)の第4回文展出品作「役小角渡唐図」として近年その所在が確認された(注5)「神変大菩薩渡唐之図」(金刀比羅宮蔵)〔図5〕は、楓湖の写実表現の導入が前面に現れている作品である。容斎の「親孝行図」(所在不明)の図像に基づいて役小角とその母を描いており、楓湖自身の写生による人体表現とは言い難い。しかし、役小角と邪鬼の筋肉の隆起や衣服の襞を陰影表現によって立体的に描くといった、迫真性に迫ろうという姿勢を認めることができる。また、役小角の面相についても怒りを露わにするかのような感情表現を見せており、ここからも楓湖の写実への傾倒をうかがうことができる。さらに波涛について、線描を用いながらも墨や青い絵の具の濃淡によって立体感を生み出し、波の動きを写実的に表現している。このような波涛の表現は、天照大神を『前賢故実』「源頼光」の、須佐男命を「藤原岳守」のポーズをそれぞれ引用して描いた「天照大神と須佐男命」(明治41年、広島県立美術館蔵)〔図6〕でも見ることができる。また、容斎と同画題を描いた「蒙古襲来之図」の波涛も、容斎よりも写実的に表現されている。このように、図像上は容斎に依りながらも、その中に写実的な表現を盛り込む点に、容斎の歴史画を発展させていった楓湖の作風を見ることができる。この写実的な波涛表現は、明治29年に制作された「信濃川洪水図」(新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵)〔図7〕にも見ることができる。線描による表現に重点が置かれながらも、絵の具の濃淡によって川の流れを表現することで、洪水の様子を写実的に描いているのである。明治29年7月、新潟県を襲った豪雨の影響で信濃川が氾濫、未曾有の被害をもたらしている。この水害の惨状を記録するため、川]千虎、川端玉章、久保田米僊、寺崎広業、邨田丹陵そして松本楓湖の6人の日本画家に依頼しており、各2図計12図が残されている(注6)。これらの作品の増水した川の流れに注目すれば、楓湖以外の画家が線描中心に表現しており、楓湖作品が洪水の記録画としての写実性に抜きん出ていることが分かる。

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