―382―このような楓湖による写実的な波涛表現を同時代の画家に求めると、西洋画や写真などから独自の写実表現を拓いていった小林永濯を挙げることができよう。永濯「天瓊を以って滄海を探るの図」(明治17から23年頃・ボストン美術館蔵)の波涛は西洋の写実を学んだあとがうかがえ、迫真的に表現されている。楓湖の波涛における写実性は永濯に及ばないものの、近似性を認めることができる。永濯と比較することで、楓湖が従来の伝統絵画にはない写実的な表現を求めていったことをうかがうことができ、楓湖における近代性を見出すことができよう。西洋写実導入の時期―「和装西洋婦人像」をめぐってでは、いつ頃から楓湖は西洋写実に傾倒していったのであろう。容斎は写生を重んじ、また嘉永6年(1853)に「西洋婦人像」(所在不明)を描くなど西洋写実への傾倒を示していたとされ、その門下の楓湖にも、写実表現を取り入れようとする素地は形成されていたといえよう。それを示すように、明治8年の「花籠と幽霊」(全生庵蔵)では墨の濃淡による立体感の表現がなされている。波涛表現の写実性は、このような前提の上に明治という西洋写実が本格的に移入されたからこそ可能となったといえるだろう。楓湖の西洋写実導入を考える上で重要な作品が、「和装西洋婦人像」(明治前期、島根県石見美術館蔵)〔図8〕である。背景に描かれた草花には写実性が認められないものの、婦人像は写実的、というよりも写真を基にしたかのような作風で、横浜絵の一例とされる作品である。すでに指摘されているように(注7)、「西洋婦人像」を描いた容斎の西洋写実への傾倒や、アーレンス商会の輸出用七宝焼下絵を描いていたことなどがその制作の背景と考えられている。横浜絵は外国人向けの土産物としての性格が強く、多くは海外に向かったと思われ、楓湖の場合もこの作品以外にも横浜絵を多く描いたことは想像に難くない。横浜絵を描いていく中で、楓湖は写実的な表現を体得していったのであろう。「和装西洋婦人像」は、その制作年代は明治前期とされている。しかし、詳細に見ていくとその制作年代をさらに特定することができる。この作品が描かれた背景には、先に触れているように楓湖がアーレンス商会の仕事を行っていたことと無関係とは言い難い。楓湖はアーレンス商会から予想を超える収入があり、明治10年に浅草栄久町の自宅を購入、転居したという(注8)。また、高村光雲『光雲懐古談』(昭和4年、万里閣書房)の中で、明治10年の末か11年の春、光雲の師東雲が楓湖の下絵から雛形をおこすというアーレンス商会の仕事を請け負ったことが述べられている。これらの
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