―383―記述から、楓湖がアーレンス商会と関係を持ったのは明治10年より前ということになる。ところで、この作品の落款は、明治初年の作品、例えば明治7年の「牛若」〔図9〕や明治8年の「花籠と幽霊」の落款とは大きく異なっている。これら2作品では、晩年まで使われ楓湖の落款として広く知られている古印体風の意匠的、様式的な書体と異なり、行書体で記されているのである。一方の「和装西洋婦人像」の落款〔図10〕では、「木」や「月」の独特の太い払いなど、その後の落款との近似が認められ過渡的な書体と考えることができる。さらに容斎の模写的作品である「伊賀局」(個人蔵)〔図11〕の落款〔図12〕では、書体の様式化がさらに進んでいる。そして明治14年刊行の『幼学綱要』では、すでに独自の書体による落款〔図13〕で記されていることから、明治9年から13年までの5年間の間に、落款の大きな変化があり、「和装西洋婦人像」「伊賀局」がその過程を示しているのである。このことから作品の制作年を推定すれば、「和装西洋婦人像」が明治8年から多少時間を経た明治10年から11年頃、「伊賀局」が「和装西洋婦人像」の落款との近似を考えればこれに続く12から13年頃とすることができよう。楓湖がアーレンス商会の仕事を請け負うようになった時期と、落款から推定される制作年がおおむね一致することからも「和装西洋婦人像」を明治10年から11年頃の制作とすることができる。先にも触れた「花籠と幽霊」にも陰影表現による立体感が見られるが、本格的な西洋写実に触れ取り組んでいったのは、実作品からはこの明治10から11年頃以降のことと考えるのが妥当であろう。容斎風堅持の背景楓湖の兄弟弟子渡辺省亭によれば容斎は粉本を与えず、師風の墨守を戒めていたという。省亭にも容斎に倣った「塩谷高貞妻浴後図」(明治25年頃)があるが、これは容斎の没後の制作である。かつ手本となったのは『前賢故実』中の「塩冶高貞妻」であり、これを図像とした作品は月岡芳年にもあって(注9)、楓湖のような直接的な模写と解することはできない。では、なぜ楓湖は容斎の模写が許された、あるいは積極的に行っていったのであろう。その鍵の一つが容斎による楓湖の評価にあると思われる。明治35年に出版された金井確資編『日本美術画家列伝』の楓湖の項に「容齋、氏(楓湖・筆者注)の天稟を愛し、9授懇到、常に曰く、衣鉢傳ふるもの其人ありと」とある。もちろんこれは容斎が亡くなって四半世紀が経って出版されたものであり、どれだけ真を得たものかは疑問も残る。しかし、この書物は原稿を作家自身に依頼し
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