―384―たり、確認してもらうなど、誤謬のないように努めたといい、楓湖もこの内容を知っていたことになる。実直な人柄で知られた楓湖がこのような重要な事柄の誤謬を許すとは考え難く、概ね信頼のおける内容と判断できよう。この記述に基づけば、楓湖が容斎の画風を継承した理由は、従来いわれているような楓湖の意志によるもの(注10)ということでのみ結論付けられるものではなく、むしろ楓湖を画風継承者にしようと考えた師である容斎の意向が大きく関わっていると考えることができる。その理由として、容斎が当時の人気作家の一人であったという背景が挙げられる。明治20年の調査であるが、容斎は物故画家十傑に数えられ、しかも尾形光琳や田能村竹田よりも上位に位置している(注11)。容斎存命中も十指に入るとまではいかないものの同じ傾向であったと思われる(注12)。社会的にも容斎の画風を継承していく人物が要求されていたと考えることができ、楓湖が容斎の画風を忠実に継承し、その模倣、画風の墨守とされた楓湖の生存中における評価(注13)も決して楓湖にだけ帰せられるものではないだろう。当時の楓湖に求められていたものは、容斎風の作品を描くことであり、楓湖にとってもそのことが師恩に報いることに繋がったと考えられる。楓湖の作品のうちその大半を占める依頼画が容斎風を堅持している一方で、出品画である「神変大菩薩渡唐之図」では、容斎の図像に基づきながらも写実というものを前面に押し出しているのは、この作品が容斎風を望まれて描いたものではなく、楓湖の独自性を出すことが許された出品作であったからと考えることもできる。この作品には買い手が付かなかったためか、1年ほど後の明治45年3月に金刀比羅宮に奉納されている(注14)。なお、明治42年第3回文展に出品された「小楠公於四条畷奮戦図」(行方不明)についても、残されたモノクロ図版を見る限り、正行の表情は陰影を強調し立体感を出すとともに生々しい表情をとらえようとしていることが認められるのである。これらのことからも、楓湖が容斎の画風を忠実に継承し、独自性を前面に押し出す制作をしなかったのは、楓湖という画家の前近代性によるものというよりも、楓湖に容斎の作風を望んだ社会全体の前近代性によるものと考えることができる。さいごに楓湖は、従来から指摘されているように容斎の画風を継承し、その枠を大きく出ることはなかった。しかし、その中でも、沖一峨の影響や西洋写実の導入など、容斎とは異なる楓湖の個性を認めることができる。ただ、残念ながら楓湖に求められていた
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