B鎌倉時代南都絵仏師住吉法眼に関する基礎研究―397――中近世史料にみる住吉法眼像の変遷―研 究 者:山口県立美術館 学芸員 杉 野 愛はじめに現存する作例と絵仏師・絵所をつなぐという大きな課題が残されている南都仏画研究において、先学によって積極的に評価されてきた絵仏師は南都絵所松南院座の祖・尊智である(注1)。南都復興を機に京都から下向したと考えられている尊智は、主に京都での活躍からすでに同時代において高名であったようで、室町時代の大乗院門跡・尋尊がまとめた「本尊目六」(以下、「目六」)(注2)においても突出して7点の作例にその名前が付されている。一方で、尋尊によって同様の活躍が語られる住吉法眼なる絵仏師については、同時代の史料がないばかりか、帰属される作品も室町時代の興福寺史料も極めて手掛かりの少ない伝承にすぎない。しかしながら、「目六」に掲載される住吉法眼の作例は、後述するように数は少ないものの尊智に匹敵する重要な本尊を含んでおり〔表1〕、南都仏画の重要作例としてしばしば引用される「二天王像」(2幅、興福寺蔵)〔図1〕もまたその筆とされるなど(注3)、決して看過できない。さらに注目すべきは、この絵仏師が近世に入るなり幕府御用絵師・住吉派の祖として鮮烈なリバイバルを遂げたことである。住吉派は以後着々と御用絵師としての地盤を固め、幕末明治に至るまで古画に精通した絵師集団として活躍していくこととなるが、当初彼らが抱いていた住吉法眼像はきわめて曖昧であったようだ。そもそも、なぜ後水尾院は住吉法眼を再評価し、復興すべき絵仏師として選んだのか。その契機は何であったのか。またこれにより住吉派の画題や画風にどのような影響があったのかは、大きな課題として残されてきた(注4)。筆者は本助成を機に、中近世にわたって語り継がれた住吉法眼像の抽出と考察を進めた。これにより、その変遷を以下の5期に区分するに至った。0期:同時代(12、13世紀)〜14世紀1期:大乗院門跡・尋尊の記述を中心とする中世後期(15、16世紀)2期:寛永本「当麻曼荼羅縁起絵」と『本朝画史』(17世紀)3期:松平定信の命による住吉広行、柴野栗山の山城大和調査(18世紀)4期:それ以降(19世紀〜)全般にわたるイメージをつなぐキーワードが「南都」・「春日」であることは以下に
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