1.大乗院門跡・尋尊の記述を中心とする中世後期の住吉法眼像(1期)―398―報告する通りだが、とくに強調したいのは、1期において住吉法眼がときに尊智を上回る極めて重要な絵仏師と認識されていたことである。また、筆者が1、2期の転換契機と考えている寛永10年(1633)の「当麻曼荼羅縁起絵」(3巻、個人蔵)制作とこれに伴う「当麻曼荼羅縁起絵」(2幅、当麻寺蔵)の再発見が、近世住吉派誕生のひとつの契機となった可能性も提示したい(注5)。すでに冒頭でふれたように、住吉法眼に関する同時代史料はこれまで確認されていない。筆者も今回、彼の名を求めて膨大な鎌倉時代史料を博捜することはあえて行わず、現時点では室町時代に興福寺大乗院門跡を務めた尋尊が記した日記・「大乗院寺社雑事記」(以下、「雑事記」)の文明19年(1487)6月30日条を初出として論を進めたい〔表1〕(注6)。この記述はきわめて重要な指摘をしている。玄奘三蔵絵披見了、抑此絵ハ菩薩山本願ノ御絵也、(中略)此絵書手事或住吉法眼或大タクマノ法眼云々、両説ナリ、去享徳年中依勅定此絵大内ニ進上了、主上橘以量ヲ被召被仰云、此絵十二巻之内上六巻・下六巻筆師相替了、可拝見之由被仰出、誠令相違云々、是希代ノ仰也、以量ハ絵書也、然者彼絵所両人シテ書之歟これによると、「玄奘三蔵絵」は菩提山本願、すなわち九条兼実の弟で興福寺別当、一乗院、大乗院門跡を務めた信円僧正が作らせたものであるという。その筆者は住吉法眼、大宅間法眼の両説があったが、享徳年中(1452〜1455)に後花園天皇が御覧になったところ、絵師である橘以量に「12巻のうち前半6巻と後半6巻では筆が異なる」とするどい指摘をしたという。尋尊はこの気づきを絶賛し、「玄奘三蔵絵」は住吉法眼と大宅間法眼の二人で描いたのだろう、と締めくくっている。ここでまず注目されるのは、現存「玄奘三蔵絵」(12巻、藤田美術館蔵)以前にその旧本が存在したということである。そしてその筆者として住吉法眼と大宅間法眼が挙げられ、両者はとくに優れた技量を持つと認識されていた。尊智や吐田座祖・有尊など「雑事記」に系図を掲載される絵仏師ではないということは、いまだ南都に絵所座が立っておらず、多くの絵仏師が拮抗していた時期のことであろうか。興味深いのは尋尊の頃、住吉法眼の画風が宅間派の絵仏師に近いと認識されていたことである。大宅間法眼が、現在知ることのできる誰にあたるのかは不明だが、信円(括弧、下線筆者)
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