鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―399―の頃とすれば勝賀か俊賀であろうか(注7)。いずれにしてもこの旧本は、源豊宗氏が推察されたように、筆意のある線で描かれた比較的描線本位の作風で、現存する鎌倉時代後期の色彩本位のものとは異なっていた可能性もある(注8)。同条では、この旧本が大乗院門跡で代々相伝してきた重宝中の重宝であることが強調されている〔表1〕。この点を鑑みれば、その筆者や制作の由来には現在は失われたなんらかの根拠があったとも考えられる。あるいは後述のように尋尊のコンテクストにおいて、「名筆」には「住吉法眼或大タクマノ法眼」を充てる向きがあったとも考えられる。「雑事記」には、延徳2年(1490)から始まった大修理の記録が記されているが、これに先立つ文明19年(1487)6月30日にはその準備の留め書きと考えられる本尊目録が記されている。すでに公刊されている「目六」の元と考えられるものである。「雑事記」の記録と照合すれば、延徳2年11月24日条に本尊94幅の修理が終了したことが記されており、これが「目六」前半の「新表法」を付された軸の数と一致することから、「目六」はこの時点での記録と考えられよう(注9)。このように「雑事記」と「目六」を補完的に参照することによって、住吉法眼イメージに関する尋尊の視点に関しても興味深いことがわかった。まず、「目六」を先に参照すると、住吉法眼に帰せられる作品を3点確認することができる〔表1〕。鎌倉時代後期に四天王寺別当職を務めた寛尊が寄進したという「法相万タラ」は、先述した「雑事記」記載の本尊目録にある、一同(弥勒菩薩法相)万タラ〈名筆〉、一福〈寛尊僧都進之〉(括弧、下線筆者)にあたるが、尋尊はここではその筆者を単に「名筆」とのみ記している。これを「目六」で「住吉法眼筆云々」と書き改めたのは、先述したように尋尊周辺で「名筆=住吉法眼」とする認識があったことを表していよう。「目六」にある3点の所在は、菩提山信円ゆかりの正願院であり、うち「毘沙門天等四天」は亀田孜氏によって興福寺に現存する「二天王像」と比定され、承元〜建保年間(1207〜1219)制作の可能性が示されたものである(注10)。亀田氏が指摘するように、この四天王像の現存する一部が「二天王像」であるならば、この作品から住吉法眼の画風が想像されるのだが、尊智とする説もあって定まっていない。さらに、1期の史料として注目されるのは「興福寺濫觴記」である(注11)。このうち「八 山城国栂尾寺御神影并開帳之事」に引用される「太子伝撰集抄」には春日

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