鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―400―住吉両神影についての記述がある。これによると、明恵が春日、住吉の両神と対面した時の姿を写し留めたものが栂尾高山寺にあり、その筆者が住吉法眼であるという。しかしながら明恵の高弟喜海が著した明恵伝などには建仁3年(1203)に「仏師薩摩法橋俊賀」に描かせたとあることが指摘されており(注12)、中世における住吉法眼像は、常に尊智、宅間にきわめて近いところで語られてきたようである。2.寛永本「当麻曼荼羅縁起絵」制作と『本朝画史』(2期)さて、信円の時代から興福寺一乗院末寺となっていたことが知られる奈良・当麻寺には、鎌倉時代後期に制作された掛幅装の「当麻曼荼羅縁起絵」(以下、当麻寺本)〔図2〕が伝えられている。延宝6年(1678)の『本朝画史』はその筆者を住吉法眼に帰している。住吉法眼 不知姓名。善仏像人物兼能花草。画法比宅間則稍草。和州法隆寺有聖徳太子行状六幅。又当麻寺有中将姫縁起二幅。住吉法眼の姓名は不明であるが、仏像人物表現に優れており、あわせて花卉に巧みであるという。その画法はやはり宅間派と比較されており、比較的筆勢が速いという。宅間派との比較は、「雑事記」など前代の記録をもとに行っているのであろう。この『本朝画史』の記述で注目すべき点は、以後の画史・画伝と異なり、「住吉法眼」の他には「絵過去現在因果経」筆者の「慶忍」、すなわち住吉住人慶忍〔表1〕のみを記して、「慶恩」にふれていないことである。また住吉法眼についてもいたずらに伝承を加えておらず、具体的だが意識的に抑えた記述に見受けられる。その前提にはこれより45年前に狩野派が中心となって取り組んだある絵巻制作が想起される。『本朝画史』の草稿筆者とされる狩野山楽(1559〜1635)、山雪(1589〜1651)が制作に参加した寛永10年(1633)の「当麻曼荼羅縁起絵」(以下、寛永本)は、その奥書から当麻寺念仏院の慶誉究諦の依頼によるものであることがわかっている(注13)。この制作に参加した絵師は狩野派から山楽、山雪の他に、光孝(光教か)、長信(1578〜1654)、探幽(1602〜74)、尚信(一信、1607〜50)、安信(1613〜85)、興意(?〜1636)、友親。土佐派から光則(1583〜1638)。春日絵所から竹坊正秀、榮秀といった面々がそろっており、世紀のプロジェクトといっても過言ではない(注14)。当代一流の絵師たちに南都絵所の末裔を示唆する春日絵所が加わっているということは、以前の縁起絵、すなわち当麻寺本が南都絵所によって制作された前例を尊重しよ(下線筆者)

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