―401―うとする配慮であろうか。寛永本の各絵は、狩野友親(上巻第7段)や狩野安信(下巻第3段)が当麻寺本から図様を引用していることから、彼らがそれを実見したうえで作画にあたっていることは明らかである。無論、享禄4年(1531)土佐光茂制作の「当麻曼荼羅縁起絵」(3巻、当麻寺奥院蔵)からの引用もあり、また、各絵師はこれら以上に独自の画面を作り出そうともしている。こうした作業を経て、のちに『本朝画史』が当麻寺本の筆者を慶忍でも慶恩でもなく「住吉法眼」と結論づけているのは注目すべきことであり、狩野派の古画学習の深さを示唆するようで興味深い。さて、上記の絵師たちの中にいる土佐光則こそが近世住吉派の祖・住吉如慶(1598〜1670)の兄弟子(あるいは師)であることはとくに注目に値しよう。さらに、以下に挙げる詞書筆者の面々も当代一流の歌人たちであることは、のちの後水尾院の王朝文化復興と住吉派の設立を考える上で看過できない。住吉派は、家の絶えた住吉法眼の名跡を如慶が求めたことに端を発するという〔表1〕(注15)。その背景には、天台宗や文芸復興との関わりがあったことがすでに指摘されてきたが(注16)、とくに下原美保氏の挙げられた後水尾院の一大功績、古今伝授の再興に取り組んだ主要メンバーが、寛永本詞書筆者たちと密接なつながりをもつことを今回見出だせたことは、本研究の大きな成果である。再興メンバーと共通する寛永本詞書筆者に聖護院道晃法親王。父子、祖父孫関係にある者が、飛鳥井雅宣・雅章、日野光慶・弘資、烏丸光広・資慶、中院通村・通茂などである。さらに、如慶との関わりが深い青蓮院尊純や、天台座主尭然法親王(後水尾帝弟)の前任・曼殊院良恕らの天台高僧も寛永本のために筆をふるっている。絵師側だけでなく詞書筆者側にも、後水尾帝と住吉如慶、そして住吉法眼をひきあわせるに十分な条件がそろっている。すなわち寛永本メンバーには若き後水尾帝に対して王朝文化の進講役を務めた面々がおり、ここに帝の王朝文化復興サークルメンバーの淵源が求められるといえよう。さらにその制作現場では狩野派、土佐派、春日絵所も入り交じって「家が絶えた鎌倉時代南都絵仏師・住吉法眼」の名を唱えていた、と考えられるのである。後の如慶が精力を傾けた縁起絵や太子伝が、住吉法眼が手掛けたと『本朝画史』が伝える分野であることもいまいちど確認しておきたい。『本朝画史』は住吉法眼と宅間の画法の近似を指摘しながらも、あえて住吉法眼を当麻寺本作者に帰している。「粟田口民部卿法眼隆光」の条には、
元のページ ../index.html#409