鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―33―トへの逃避連作の破損の要因:アンシャン・レジームの時代に教会・修道院の土地財産と自治体所有地は永代所有化されていた。しかしこのような土地財産を市場に開放するための法的な措置が18世紀末のカルロス四世治下に始められ、これがデサモルティサシオンである。啓蒙改革家たちの間で、特に教会・修道院の土地財産は批判の対象となっていたが、聖界デサモルティサシオンの本格的な局面は、メンディサバル政権のもとでこれが法令化された1836年に始まる。このことにより、カルトゥジオ会アウラ・デイ修道院は、修道院としての機能を失い繊維工場などに用いられ、ゴヤの作品は長い年月注意を払われないまま放置された(注2)。この結果、教会の南側の壁面に描かれた作品は《東方三博士の礼拝》一枚を残し、残り4枚の作品が損失していた。この状況を記録したものが、修道院の再建の前にここを訪れたアウレリアーノ・デ・ベルエテによって1917年に刊行され、記録写真の掲載された回想録に記載された(注3)。修道院の再建とゴヤの作品の鑑定:1901年にフランスから再びカルトゥジオ会士の修道士らがアウラ・デイに戻り、修道院生活を開始する準備が始まった。修道院の再建にともない、付属教会の絵を取り払う意見と保存する意見とに分かれる。グラン・カルトハの建築家(Mr. Pichat)は、取り払うことを主張したが、当時の修道院長のレオナルド・ゴルセ(Leonardo Gorse)は、修復を主張した(注4)。その結果1902年にベルリン美術館の館長であるバレリアン・フォン・ローガが来西し、鑑定の末ゴヤの真筆であることが確定された(注5)。先行研究:〈聖母の生涯〉についての最初の作品カタログの編纂は、バレリアン・フォン・ローガ(1902年)(注6)、スペインでの最初の研究論文は、サラゴサ人の新聞記者であり、美術批評家のホセ・バレンスエラ・ラ・ロサ(注7)による1903年の報告である。美術史に於ける主要なその後の研究と報告は、ギディオル(1961年)、ベルテゥラン(1971年)、フリアン・ガジェゴ(1975年)、トラルバ(1977年)、カモン・アスナル(1980年)、アンソン・ナバロ(1995年)、トラルバ(1997年)、ゴヤの宗教画全体を分析の対象としたアンソン・ナバロ(1997年)があげられる(注8)。

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