―402―(2巻、光明寺蔵。以下光明寺本)を見誤り、こちらを「住吉家の旧記」に従って「住吉慶恩筆」と鑑定したのであろう〔表1〕。「小柴垣之草子」、「地蔵菩薩縁起絵」などの絵巻類までが次々と「住吉法眼慶恩」に(前略)我聞、宅間・住吉・粟田口・芝四人者春日画所也。共住南都世業写仏像。国史所謂絵仏師是也(後略)と記されていることから(注17)、その鑑定は当麻寺本を「春日画所」すなわち南都絵所の住吉法眼が制作したと位置づけていることをあらわしている(注18)。3.『寺社宝物展閲目録』と「当麻曼荼羅縁起絵」(3期)、それ以降(4期)最後に、近世初期にはまだ曖昧であった住吉法眼像が一転、一気に具体化して語られていく契機となる3期について少し考察しよう。その鍵となるのが松平定信の命によって行われた山城・大和の寺社宝物調査である。この調査には住吉広行と柴野栗山が同行し、多くの寺社をめぐって宝物の記録を残している。その『寺社宝物展閲目録』のなかには、住吉法眼筆とする作例が3件あり〔表1〕(注19)、なかでも法隆寺の太子絵伝に関する記述は注目される。住吉広行はこの調査にあたって『本朝画史』を参考書としており、『寺社宝物展閲目録』には『本朝画史』に掲載された住吉法眼筆六幅の「太子絵伝」を求める様子が生々しく記されている。一方で、当麻寺の条において掛幅本は確認されていない。こちらも『本朝画史』から当麻寺に中将姫縁起があることを住吉広行は知っていたと思われるが、当麻寺の調査ではみつからなかったようだ。ゆえに定信は翌寛政5年に「当麻曼荼羅縁起絵」これ以降(4期)の画史・画伝類では「住吉法眼慶恩」に関する情報が激増していく。この定信奥書を象徴とする「住吉法眼慶恩」の解放は、それまで抑制気味に語られてきた「住吉法眼像」の偶像化を推し進めていくかのようにみえる。〔表1〕には一部のみを記したが、3期以降、「春日曼荼羅」などの仏画から、「平治物語絵巻」や帰属されていく。これには住吉派の地道な作画・鑑定作業による発見が寄与しているのだろうが、住吉派が自らの正統性を示し、地位向上促進に向けて主張していった面もうかがい知ることができる(注20)。『増訂古画備考』には、住吉内記が「古画の中に慶恩ほど巧いものはない」と自派の正統性を誇示したのに対して、その所持する慶恩筆「地蔵縁起巻物」はそれほどの名画にもみえないし時代も降るようだと反感を持つ者がいたエピソードも記されてい(括弧筆者)
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