―403―る。結語以上、中近世史料の断片から住吉法眼像の変遷を概観してきた。住吉法眼を探る上ではとくに住吉家再興後の3期に大きな変化が起こっていることから、これ以降に住吉法眼(慶恩)筆と記された作例については、近世住吉派の主張が加味されていることを考慮に入れて分析する必要があるだろう。中世における住吉法眼像は、信円の頃に南都を中心に活躍する絵仏師であることがわかったが、本研究では探れば探るほど尊智や宅間派などの絵仏師たちとの区別の難しさに悩まされた。現存する「玄奘三蔵絵」は、現在、鎌倉時代末期の制作であるとの共通見解がもたれ、その筆者に14世紀初頭に宮廷の絵所預を務めた高階隆兼を充てる向きもある。高階隆兼といえば、鎌倉時代末期のやまと絵の金字塔と評価される「春日権現験記絵」(20巻、宮内庁三の丸尚蔵館)の筆者であり、その画風には南都絵所松南院座絵仏師・尊智、快智の影響も指摘されてきた(注21)。さらに先述した当麻寺本は14世紀前期と考えられる優作であるが、これをその緻密な運筆と鮮やかな賦彩から高階隆兼とみる向きもある。しかし筆者は『本朝画史』が「住吉法眼」に帰した通り、南都すなわち当麻寺の本寺であった興福寺(一乗院)で制作されたものと考えている(注22)。ここで注目すべきは、これら興福寺周辺で制作された極めて重要な作品群が「住吉法眼」という絵仏師によって有機的なつながりを持ってくるということである。さらにこの問題には宅間派や、その名前から住吉住人慶忍との関係が指摘される成忍と高山寺周辺の研究も同時に進めなければならないとの思いを強くさせられた。本研究により、鎌倉、室町、江戸の3時代にわたる「当麻曼荼羅縁起絵」制作のリレーが、住吉法眼リバイバルを引き起こし、後水尾帝周辺の文芸復興と住吉派再興に寄与した可能性が高いことがわかったのは大きな成果であった。これについても紙数に限りがあり、丁寧に論じ尽くせなかった分は稿を改めたい。本研究のために貴重な作品の調査にご快諾をいただき、さらに貴重なご教示をいただきましたボストン美術館東洋部のアン・ニシムラ・モース氏と、多大なご協力をいただきましたコロンビア大学大学院のチェルシー・フォックスウェル氏に心から感謝いたします。
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