C東城鉦太郎と日露戦争について―408―研 究 者:早稲田大学教育・総合科学学術院 助手 向 後 恵里子はじめに東城鉦太郎(注1)(1865〜1929)は、忘れられた画家である。明治時代から活動し、川村清雄の門下として、明治美術会会員、トモエ会会員として、また戦争画の大家として賞賛をあびたにもかかわらず、今日その名を知る人は少ない。彼の名は唯一、《三笠艦橋の東郷大将以下》〔図1〕、(以下《三笠艦橋》と略す)と呼ばれる作品を描いた画家としてのこっている。この《三笠艦橋》は、明治38年(1905)年5月におこった日本海海戦にのぞむ旗艦三笠の光景を題材とした作品である。この海戦の勝利によって、日本はロシアとの講和の道を開いたとされる。日露戦争史のみならず日本近代史上の特筆すべき事件を見事に描き出したものとして、戦前には広く浸透していた(注2)。今日においてもその図像は近代史の挿画としてたびたび引用され、あたかも日露戦争を象徴するかのように用いられることも多い(注3)。しかし、そのイメージの浸透に反して、この作品の制作経緯には不明な点が多い。また、東城は日露戦争期を代表する戦争画家でありながら、《三笠艦橋》以外の活動が論じられることはきわめて少なかった。ゆえに、本稿の目的は、東城鉦太郎の日露戦争期を中心とした活動についての調査にある。具体的には、以下の点にそくして検討する。第一に、東城鉦太郎の日露戦争期にいたる画業を概観する。第二に、日露戦争期の活動の調査として、まず従軍の実態を明らかにし、さらに当該期の制作活動をメディアの種類ごとに整理する。最後に、《三笠艦橋》を含む戦争画の制作の状況を整理する。こうした調査を通じて、いまだ基礎的研究の少ない日露戦争期の戦争イメージ形成に関して、新たな知見を提供することができよう。1.東城鉦太郎の画業東城鉦太郎は、慶応元年(1865)3月11日、江戸小石川で生まれた。旧幕臣景行の長男であるという(注4)。東城の画歴がいつからはじまったかは不明であるが、「年十五洋画に志し」(注5)たという記事がのこっている。数え年で言えば明治14年(1879)頃であり、おそらくこの後に印刷局へつとめはじめたと考えられる。印刷局に通った期間は未詳であるが、「印刷局雇教師エドワード・キヨソネ及川村
元のページ ../index.html#416