鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―409―川村清雄翁に師事した」(注7)といった記述から、洋画の基礎をキヨッソーネに学び(注8)、また明治17年(1882)に川村清雄と出会ったことがわかる。川村はその後一年足らずでキヨッソーネと袂を分かち、印刷局を辞すことになるが、東城はこの時ともに印刷局を去った。川村の伝記をまとめた木村駿吉は、「川村画伯は退官して弟子も共に印刷局を去つてしまつた。その弟子の中には東城鉦太郎氏もあつた」(注9)と記している。木村はこの伝記を書くにあたって東城へも取材しており(注10)、この記述には信頼がおけよう。木村は同箇所で東城のことを「明治十六七年以後[川村]画伯と喜憂を共にしたる」と形容しており、この頃から川村への師事を本格的にはじめ、また画家としてのスタートをきったようだ。川村は明治18年(1885)には画塾「心華画房」を開くが、このとき東城は助教として協力している。東城は明治20年(1887)には東京府工芸品共進会へ《少女着座の図》を出品、褒状を受け、明治22年(1889)の明治美術会の創立時には、会員となって第一回展覧会へ《櫻狩》と《竹取物語》を出品している。明治27年(1894)に日清戦争がおこると、東城は第一軍司令部に従軍した。川村は当時海軍省の依嘱により《黄海海戦図》を揮毫している。これは川村が勝海舟と昵懇であり、その関係からの依頼であった。東城の従軍は、川村を介してはじまったものと推察される。明治29年(1896)東城は平壌包囲攻撃の図を作成した。これは日本画家村田丹陵による黄海海戦の図とあわせて屏風に仕立てられ、宮中に献じられた(注11)。しかしこの注文は、海軍省ではなく宮内省からのものであった。次にあげる明治27年の新聞記事は、東城と宮内省との関係、そこに介在した別の存在を示している。「東京新橋出雲町の東京造画館主塚本岩三郎氏が同館画工東城鉦太郎氏と共に揮毫したる征清戦況の油画九枚を去る十四日宮中に於て 皇后陛下並に 東宮殿下の御覧に供せし」(注12)この記事によれば、東城は東京造画館につとめ、館主塚本岩三郎と日清戦争の油絵を共作している。同館は多色石版画を手がける出版所であり(注13)、東城は印刷局で学んだ石版画の知識をいかしたものかと考えられる。それに加えて、塚本はパノラマにも関係していた(注14)。この記事中で揮毫した油画九枚は、パノラマ的な構成のものであったかもしれない。この造画館に在職することで、東城はのちの活躍の舞台となるパノラマへと道を開く事になったのではないだろうか。こうした経緯のもと、日露戦争にいたるまでの期間、東城の活動は3つの媒体を舞ママ清雄に学ぶ」(注6)、「日本洋画界の恩人たるキヨフネに従つて油絵を学び、その後

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