鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―410―台に展開されるようになる。一つはパノラマ、もう一つは石版印刷、そしてタブローである。まずパノラマであるが、明治30年代から、二世五姓田芳柳とともに数々のパノラマを作成している。東城の回想によれば、成田山の「不動霊験記」が最初のパノラマで(注15)、続いて明治31年三崎町、明治32年黄海大海戦パノラマ(上野東京パノラマ館)、明治33年讃岐琴平(注16)、明治34年北清事変パノラマ(浅草日本パノラマ館)と、毎年様々な場所のパノラマを手がけたという。なかでも黄海大海戦パノラマは当時珍しい海戦のパノラマであり、その様子は次のようなものであった。「一昨日開館せし上野公園黄海大海戦パノラマハ画伯東條鉦太郎氏が前人の未だ創成せざりし海戦パノラマを僅々一ケ月未満の短日子に於て竣成したる者なるが小笠原海軍大尉、佐藤同少佐、土屋同中佐其他の海軍将校同氏の挙を賛し充分の資料を与へ或ハ作画中自ら臨んで批評校訂せしめたる所も多けれバ事実に於てハ稍々正鵠に近く殊に観覧台ハ当時の旗艦松島の中央部に形作られたるものなれバ両国艦隊龍闘虎奮の活劇ハ歴々として指呼すべく真に近年の大活画なりと云ふ」(注17)次の石版印刷については、明治31年から秀英舎石版部に図案教授としてつとめたことがあげられる(注18)。このころの秀英舎石版部は泰錦堂という名前で経営されており(注19)、明治26年には民間としてはじめて多色亜鉛版印刷を手がけた(注20)。期間は不明ながら、先の印刷局、東京造画館に続いて、石版印刷にかかわり続けていることがわかる。最後のタブローであるが、明治35年には川村清雄、二世五姓田芳柳らがトモエ会を創立した。東城は創立時から旺盛に参加し、《沼津松原》(第1回展)、《横臥美人》《猿曳》(第2回展)といった題名の作品を出品している。この頃東城は『都新聞』に「邦画折衷上の欠点」(注21)という文章をのせ、写生を重視し、また「薄く」仕上げることを説く自身の美術観を披瀝している。以上のような、日清戦争において培った経験、およびその後に展開した3つメディアにおける精力的な活動は、次項で見る日露戦争期、また戦後の画業へと継続されている。2.日露戦争期における活動明治37年(1904)2月、日露戦争が開戦する。東城は従軍し、また様々なメディアにかかわった。東城が従軍の途につくのは、同年6月のことである。『美術新報』には「東城鉦太

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