―411―郎氏 近日出発戦況視察の為従軍す可しと。」(注22)と報じられている。この従軍は、新聞・雑誌社の従軍記者として戦地にわたった小杉未醒(注23)のような多くの従軍画家と異なり、海軍の依嘱を受けてのものであった。東城の従軍は、海軍の準備した観戦船「満州丸」に乗船することからはじまった。満州丸は、前名をマンチュリアと言い、ロシアの東清鉄道会社の所有していた汽船である。海軍は開戦当初に捕獲したこの汽船を改装し、貴衆議院や外国観戦武官、内外の新聞記者約60名を乗せる観戦船とした(注24)。新聞社に周知された便乗者(注25)とは別に、東城は日本画家村田丹陵とともに海軍省の招きによって乗船し、6月12日横須賀を発した(注26)。満州丸での東城は、同行の丹陵とともに、熱心に写生している姿がしばしば伝えられている。「予定の如く十二日午後二時錨を揚ぐ(略)船ハ次第に速力を加へ洋々たる波を破つて進む時に細雨濛々として房総の山、海保の影、連綿たる湾口の砲台、皆此薄暮に包まれて纔かに模糊の間に見るのみ、(略)機失ふべからずとして船客百影の写生に余念なきハ洋画家の東城氏なり」(注27)志賀重昂は、7月5日に平壌を訪れた折のことを次のように記している。「七星門に入る、門楼半ば頽れて墻垣亦た破れ、荒煙一抹、城壁に懸る、曽て是れ高麗及び李朝の興廃、日清の成敗に関はり、今回の戦役亦た我が陸軍の初めて露兵と砲火を交へたる所、人をして画の如く詩の如く覚えしむ、東城画伯を顧みて曰く、如何と、画伯声に応じて曰く、絶好の画料なりと。」(注28)東城は、そのまま眼前の情景を扇子に描き、重昂へ贈っている(注29)。この観戦ツアーは、呉、佐世保、仁川、鴨緑江を視察したのち旗艦三笠の東郷司令長官を訪問するが、当初の計画にあったダルニーには至らず、また海戦を見ることもなく帰国した。これは海上の危険ゆえの選択であったが、多くの乗船者は「所謂観戦船は直ちに遊覧船たるに終り、観戦紀行は遂にこれ一場の遊覧紀行に化し去らんとするにならずや」(注30)と感じることとなった。東城は丹陵とともに戦地へのこり(注31)、旅順を攻略中であった乃木希典率いる第三軍に従軍した。旅順付近での従軍は約2ヶ月におよび、帰京したのは10月1日である(注32)。この間、東城の送る戦地通信が『都新聞』〔図2〕に掲載され、8月には都合9回紙面を飾っている(注33)。その内容を見ると、遼東半島の南西に位置するダルニー(のちの大連、樽荷と表記)周辺を移動しているのがわかる。当時ダルニー市街は日本軍の占領下にあった。その筆は、戦闘のあった掩堡内の実況や、秩序の
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