鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―34―制作年代:制作年については推定年代であり、現在までの研究ではアウラ・デイの修道院長でゴヤの友人であった、フェリックス・サルセド修道士の依頼で1772年に始まり、1774年の間に2期に分かれて描かれたと推定されている。その根拠は、第一に、同修道院に現存する〈聖母の生涯〉の場面を描いたゴヤの作品のデッサンとアウラ・デイについての日時の記録が『イタリア画帖』(Cuaderno italiano)と呼ばれる素描帳に記載されていることと(注9)、第二にトマス・ロペス修道士が、ゴヤとこれらの作品について1830年頃に証言を残していることであった(注10)。トマス・ロペス修道士は、ゴヤがアウラ・デイでの仕事に従事していた時に、同修道院でその状況を見ていた他の修道士の話を記録していた。その記録よると「1772年から74年にゴヤは、何枚もの聖母の生涯の絵をカルトゥジオ会アウラ・デイ修道院の付属教会に描いた。特に修道士たちは、救世主イエスの誕生と聖母マリアの誕生の作品を評価した。ゴヤはイタリア留学から帰ってきており30歳位のようだった」(注11)。1746年生まれのゴヤは、この時20代半ばのはずで30代には至ってはいないが、アンソン・ナバロはこの証言の信憑性を肯定している(注12)。第三にあげられるのは、連作の人物像への筆づかい、色彩表現、類型の仕方に制作時期の経過にともない相違が見られることである。《聖母のエリサベツ訪問》と《キリストの割礼》および《東方三博士の礼拝》とでは、絵画技法を含めた明らかな表現方法の違いが認められる理由から、この作品以降を第2期と推定している(注13)。第1期に制作された作品:現存する7枚の作品のうち第1期の作品は、初めに《キリストの神殿奉献》(1772年末と推定)〔図3〕、次に《キリストの割礼》(1773年推定)〔図4〕と《東方三博士の礼拝》(1773年推定)〔図5〕の3点である。後の2点については、『イタリア画帖』に関するプラド美術館の報告書にマヌエラ・B・メナにより同2点の作品の基となりうる2枚のデッサンがあることが指摘されている(注14)〔図6〕。この報告書の論点である後のゴヤに見られる、より人間的で大衆性のある人物表現の片鱗がこの時期に認められるのか、また、どのようなゴヤの特質の萌芽がみられるのかという視点で捉えると、まず第1期の3点に見られるのは、いずれもゴヤの特徴の一つである鮮やかな色彩の表現が人物の衣装に表現されていることである。人物表現では、聖母マリアや僧侶、三博士などの絵画面に描かれた登場人物に、彫像のような硬さの表出によってボリューム感がともなわれている。また、人物の垂直的な姿が

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