鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―412―戻りつつあるダルニー市街の様子をとらえている。さて、日露戦争期には、開戦直後から『日露戦争実記』のような戦争を伝える雑誌が多くの出版社から刊行された。これらの出版社の多くは、戦争を視覚的に伝える画報雑誌の発行へと次第に力を注ぎ、有名無名の画家を起用して表紙や口絵に筆を揮わせた。三宅克己はそのありさまを、「戦争の画報は、画家の手の不足程に需要を増して来た。風景画や静物画のみを描いていた私迄も、戦争画を描かなければなら無い事になつた」(注34)と回想している。こうした画報雑誌には、東城の絵が多数掲載された。その最初期のものは、おそらく明治37年4月の『日露戦争写真画報』第1巻(博文館)の「七星門外斥候騎兵の衝突」〔図3〕と、同じく4月に出版された『軍事画報』第1号(郁文舎)の「決死隊の図」〔図4〕および「突撃の図」〔図5〕であろう。ただし後者は双方とも写真銅板であり、トモエ会に出品した作品であるという(注35)。同じころ、『軍国画報』第2巻(冨山房)には「マカロフ提督の最後」が掲載され、また第3巻には「金州丸の遭難」〔図6〕を描いた。同巻には「従軍諸画伯としては、廣業寺崎氏、丹陵村田氏、東城鉦太郎氏を首として(略)数氏が砲弾雨注の間に処して、秋水滴々たる筆鋒に成れる快作を送られつつあり。」(注36)と記されており、第4巻からは口絵に加えて戦地写生が掲載されている。東城の描いた舞台は海陸双方におよび、また画面も想像による構成あり戦地の写生風ありと様々であった〔図7〕。また一方で、東城は第4回・5回のトモエ会展に出品している。明治37年の第4回展には《決死隊》(図4参照)《騎兵の突貫》(図5参照)などが展示された。《決死隊》については次のような評が寄せられている。「東城鉦太郎君の決死隊、決死の勇士が霧を衝いて敵艦間近くボートを漕ぎ行くところで画題としてハ如何にも勇ましく人よりも景を以て其時其場の光景とした用意ハ感心だが主点となるべき決死隊が小さく色が無変化だと評したものがある、どんなものか、君のハ此外に陸兵の衝突を画いたものが昨日から陳列された筈だ」(注37)この、あとから陳列された《騎兵の突貫》は、「即日英国某新聞記者の購ふ所」(注38)となったという。翌年の第5回展には《韓国風物》《クロパトキン砲台》をはじめ、従軍水彩スケッチ十点あまりを出品した。しかし、この年の展覧会はあまりふるわなかったようである。それは、「何しろ今年は東城氏と五姓田氏がパノラマに食はれて」(注39)いたためである。日露戦争期の東城の活動を特徴付けるのは、このパノラマの揮毫である。従軍したありさまを現はさん

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