―413―明治37年こそほとんど携わらなかったようだが、明治38年からは芳柳とともに精力的にパノラマを描いた。上野の東京パノラマ館において、3月開館の旅順総攻撃パノラマ〔図8、9〕を皮切りに(注40)、奉天附近大激戦ジオラマ(注41)および乃木・ステッセルの肖像額面を掲げ(注42)、6月にはさらに日本海海戦のジオラマを揮毫した(注43)。7月には浅草にある日本パノラマ館において日本海海戦パノラマを制作する。これは芳柳が主任となって海戦の様子を再現したもので、「観覧台を船艦とし之より観戦する趣向とし足下に波浪動揺する有様」(注44)であった。これは日清戦争後に手がけた黄海海戦のパノラマと同様の趣向である。これらのパノラマは人気を呼び、多くの観衆がつめかけた。とりわけ上野の旅順総攻撃パノラマは、その盛況を伝える報道が多い。「既報の如く昨日開館した、執筆は第三司令部附従軍画工東條鉦太郎と五姓田芳柳の合作になれるもので、パノラマは敵が難攻不落と確信した旅順要塞を勇敢なる皇軍の総攻撃であるから、正午十二時の開館と同時に観覧者は詰かけ、殆んど見物場所に立錐の地もなき程で、それ二〇三高地、鉢巻山、二龍山、饅頭山と見物人は宛がら見て来たやうに、品評して居るものも多く見かけた、兎に角時機に投じたみせもの観覧物とて昨日の所では好景気のやうに見受た」(注45)「尚一つ紹介致したきは、同所[上野公園]のパノラマに有之候。右は東條五姓田両氏の合作にかゝり、旅順口攻囲群の全景を描きたるもの。読者便あらば巻煙草の代を抛つて観画台に立ち給へ、身は飄々として軽気球の裡、日軍攻囲の壮観を眼下するの快可有之候。斯程の大作も、二月上旬より一ケ月足らずの短日を以て仕上げられたる由、両氏の敏腕には敬服の外御座なく候。」(注46)東城は日露戦争後もいくつかのパノラマを手がけた。1906年末には奉天激戦のパノラマ制作のために戦跡をめぐり(注47)、また翌年には皇太子巡啓のため盛岡市にてパノラマを揮毫している(注48)。東城は明治42年(1909)には「上野に五回浅草に二回も書いた其他琴平や南部等の田舎にはよく書く事がある」(注49)と述べている。3.日露戦争海戦画の制作明治38年(1905)9月に講和がむすばれ、日露戦争は終焉をむかえた。将兵の凱旋がいまだ完了しない戦争直後の時期に、海軍省は東城へ複数の海戦画の揮毫を依嘱した〔図10〜13〕(注50)。これを監督したのは、当時の海軍軍令部参謀、財部彪と小笠原長生である。小笠原は以下のように回想している。「軍令部で日露戦役に於ける海戦画を描き置くことに定まり、財部参謀と私とが其みせもの
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