―414―の監督を命ぜられた。そこで先づ執筆者の詮議となり、結局東城画伯が選定せられて、軍令部の一室に日々出勤して画筆を揮ふことになつた。」(注51)東城が選ばれた理由は明らかではない。おそらく海軍に従軍したことに加え、小笠原と東城との交流も理由の一つであろう。小笠原は日清戦争の折に川村清雄と知り合い、勝海舟のもとを離れた川村の次なる庇護者となっていた(注52)。しかし小笠原は川村よりも15歳年下であり、むしろ弟子の東城に年が近い。小笠原の以下の述懐を読むと、東城が海戦画家となっていく道を、小笠原が後押ししている様がうかがえる。「東城画伯と私とは、その師たる川村清雄氏を通じて古くからの友人であつた。されば日露戦役中、余が財部参謀と共に、汽船満州丸で戦地へ出張の際も、同画伯と村田丹陵さんとを連れていつて、約半歳も実地見学をやらせ、帰京してからも、折に触れては軍艦や駆逐艦に遣つて、操練を見させたり、艦内に寝泊させたりして、専門の海軍画家に仕立てることに尽力した。」(注53)さて、この海戦画の目的は、「戦史の補遺」(注54)にあったという。この時期、小笠原は日露戦争の戦史編纂の任にあたっていた。田中宏巳によれば、小笠原は戦争中、海軍の報道を担当するかたわら、戦史編纂のための材料蒐集を「忠君愛国」「忠勇義烈」の作興という強い目的意識をもって推し進めていた(注55)。そうした小笠原の意識は、「戦史の補遺」としての海戦画作成を監督するにあたって充分にはたらいていただろう。とりわけその画題の選定にあたっては、小笠原の意向が反映されたのではないかと思われる。こうして日露戦争海戦画の制作がはじまった。この時に依嘱された海戦画の全貌は、その作画時期も含め、不明な部分が多い。安達将孝によれば、この時期に計画された海戦画は12枚であり、うち《凱旋観艦式》は明治45年(1912)の時点で未完であるという(注56)。小笠原の回想によれば、東城は《仁川沖海戦図》《旅順口第三回閉塞》《蔚山沖海戦図》《海軍陸戦重砲隊陣地の図》を順次描いたうえで、「第一図」から「第四図」の呼び名が付された4枚の日本海海戦図へ筆を進めた(注57)。この日本海海戦図のうち「第一図」は明治39年末に雑誌『海軍』に掲載されており(注58)、その頃までに少なくとも5枚が完成していたようだ。この日本海海戦図4枚のうち、「第三図」にあたるのが、今日《三笠艦橋》と呼ばれている作の原図である。東城は、この「第三図」の制作にのぞみ、小笠原へ次のように述べた。「此の絵こそ、出来あがると世界的のものとなるに相違なく、私も画家名利一世一
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