鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―415―代の作を遺したいと思ひますので、なし得る限り真に近いものにしたいのであります。幸に伊地知艦長の周到な御用意のため、その際の各位方の位置が明瞭に判りましたから、序に東郷閣下を始め各位を、私の思ふ通りの姿勢にして、写真を撮らして頂きたいのでありますゆゑ、何卒その御周旋を願ひます」(注59)東城は小笠原に対し頻りに調整をせがんだようだ。小笠原は多忙な関係者の間をとりもち二ヶ月かけて写真を整え、さらには三笠での取材にも便宜をはかった。三笠は当時、佐世保港内で爆沈して水面上に上甲板のみがのこる状態だったが、東城は海戦当時そのままに海兵を立たせて、撮影と写生を行った。その後百余日をかけ、「第三図」は完成の日を迎える。その当日、小笠原は東郷平八郎を招き、批評を請うた。「[東郷]大将はやゝ暫く画面に見入つてゐたが、やがて莞爾として傍に立てる東城画伯を顧み、『好う出来ました。御苦労さまでした』と静に満足の意を表した。画伯は何んとも答へず頭を低れたが、頬には潜々として涙が流れてゐた。」(注60)こののち、東城の描いたこれらの海戦画は、海軍省、のちには水交会のもとで海事・軍事思想の普及を目的として活用された。明治41年(1908)には新設の海軍参考館に展示され、さらに大正12年(1923)から教科書へ採用されている(注61)。こうしたイメージの浸透が、関東大震災により海軍参考館とともに消失したこれら海戦画の再制作へと結びつくと考えられる。おわりに以上、東城鉦太郎と日露戦争について、日露戦争前後の活動を中心とした調査の成果を述べた。いまだ調査のおよばない部分も残るが、以下のことを確認できた。東城は印刷局においてキヨッソーネに学んだのちに川村清雄と出会い、その門下となった。日清戦争では従軍、戦争画を描いたが、その活動の範囲は、明治美術会・トモエ会を舞台としたタブローの世界にとどまらず、石版画、またパノラマにおよび、その後の活動の基礎を形成した。日露戦争期においては、海軍の観戦船満州丸に乗船、また陸軍第三軍に従軍している。この時期には画報雑誌やパノラマといったメディアを舞台に精力的に活動し、多くの作品をのこしている。日露戦争後には海軍省の依嘱によって日露戦争の海戦画を複数描き、それらは戦史を補完するものとして、海事・軍事思想を普及させるために活用された。こうした東城の活動を通して見えてきたのは、まず、画家の活動範囲の広さである。

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