注東條と表記されることもあるが、引用文中をのぞいて本稿では東城で統一する。これは公文書にのこされた名刺の表記による(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. C04015560700、昭2.6.13「海軍講演並に活動写真の件」『公文備考』文書1巻24、防衛省防衛研究所)。 丹尾安典「2 歴史の紙芝居」、丹尾安典・河田明久『イメージの中の戦争 日清・日露から■河田明久「明治期戦争美術鳥瞰」『国文学』49(6)、2004年、20〜32頁。北原恵「「三笠艦橋の図」と歴史の記憶」、小森陽一・成田龍一『日露戦争スタディーズ』紀伊国屋書店、2004年、36〜38頁■『新撰大人名辞典』平凡社、1937年■「東城鉦太郎(画家小伝)」『軍事画報』1、1904年、6頁■「現代美術家録」『日本美術年鑑』朝日新聞社、1927年、25頁■「東條画伯逝く 有名な海戦画家」『都新聞』1929年7月6日■丹尾安典「キヨッソーネの拒絶―川村清雄との関係をめぐって―」、明治美術学会・印刷局朝木村駿吉『川村清雄 稿本 作品と其人物』中野町(東京府):木村駿吉、1926年、16丁裏前掲『川村清雄 稿本 作品と其人物』注、1丁裏〜2丁表「日清戦争の御屏風下絵」『読売新聞』1896年6月17日「戦況油画の光栄」『読売新聞』1894年11月20日『描かれた明治ニッポン〜石版画〔リトグラフ〕の時代〜〈研究編〉』描かれた明治ニッポン外山卯三郎『日本洋画史2 明治後期』日賀出版社、1978年、207頁東城鉦太郎談「東城鉦太郎氏のパノラマ談」『美術新報』8(2)、1909年前掲『イメージの中の戦争 日清・日露から冷戦まで』注 、24〜25頁「黄海大海戦パノラマ」『読売新聞』1899年7月12日 前掲『新撰大人名辞典』注■、「東城鉦太郎(画家小伝)」注■にて記載■『株式会社秀英舎沿革史』秀英舎、1907年。『創業五十年誌』秀英舎、1927年 前掲『描かれた明治ニッポン』注、315頁■『都新聞』1903年6月26日■『美術新報』3(6)、1904年6月5日、7頁■山田直子「従軍した画家たち―『戦時画報』における不同舎門人の活動」『女子美術大学研究―416―当時の社会において、画家の活動する場は、タブロー上の世界にとどまらず、画報雑誌やパノラマといった大衆的なメディアに開かれている。程度の差こそあれ、これはおそらく多くの画家に共通しており、当時の社会における視覚文化の状況の一端をうかがうことができよう。次に、日露戦争期には多様なメディアが存在し、膨大な視覚イメージが作り出されていたということがあらためて確認された。こうしたイメージ群についてのより広範な調査が進めば、日露戦争のイメージ形成について、また当時の視覚文化のあり方について、より理解を深めることができると考えられる。冷戦まで』岩波書店、1996年、27頁陽会編輯『御雇い外国人キヨッソーネ研究』中央公論美術出版、1999年、125頁展実行委員会、2002年、317頁
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