■宮川鐵次郎「満州丸観戦録」『日露戦争実記』第22号、1904年7月13日、117〜118頁菊池幽芳「観戦紀行」『日露戦争時事画報』8、1904年、30頁『美術新報』3(7)、1904年6月20日、7頁雲外生(宮川鐵次郎)「戦地視察録(二)」『都新聞』1904年6月17日志賀重昂「満州丸」『大役小志』博文館、1909年、19頁同前、71頁菊池幽芳「観戦紀行(第二十三信)」『日露戦争時事画報』12、1904年9月1日、21頁(1904年4月7日付)。(「トモエ会洋画展覧会(三月の美術展覧会概観)」『美術新報』4(1)、1905年3月20日、7頁)『美術新報』3(23)、1905年2月20日、7頁『美術新報』4(1)、1905年3月20日、7頁『読売新聞』1904年3月25日『美術新報』4(8)、1905年7月5日、6頁「パノラマのいろいろ」『美術新報』4(7)、1905年6月20日、6頁「上野公園パノラマの初日」『萬朝報』1905年3月8日「編輯だより」『ハガキ文学』2(4)、1905年、62頁[東城鉦太郎談]「満州の画材採集」『都新聞』1907年1月18日『東京毎日新聞』1908年9月2日「東條鉦太郎氏のパノラマ談」『美術新報』8(2)、1909年 安達将孝の調査によれば、これらの海戦画の著作年月のうち、最も早いのは明治39年2月である(「東城鉦太郎と「三笠艦橋の図」」『東郷』418、2004年、25頁)。軍令部において日露戦史編纂事業が開始されるのが明治38年12月からであることを考慮すると、明治38年末から明治39年初頭にかけての時期に制作がはじまったのではないかと推察できる。9安達将孝「東城鉦太郎と「三笠艦橋の図」」『東郷』418、2004年、23〜31頁前掲「東城画伯の傑作」注4「日露海戦紀念写真大額面」『海軍』1(10)、1906年12月―417―4小笠原長生「東城画伯の傑作」『聖将東郷全伝』第3巻、聖将東郷全伝刊行会、1941年、262頁5市川銑造編『子爵小笠原長生』小笠原長生子爵喜寿記念編纂会、1943年、159頁6前掲注4、262頁7佐藤雅春「東城鉦太郎氏と海戦図」『アトリエ』6(9)、1929年、33頁8田中宏巳「日清、日露両海戦史の編纂と小笠原長生(二)」『軍事史学』18(4)、1983年、39紀要』33、2003年、165〜175頁『美術新報』3(10)、1904年8月5日、6頁『美術新報』3(14)、1904年10月5日、7頁『都新聞』1904年、以下の日付に掲載。8月1日、8月15日〜20日、26日、29日 三宅克己『思ひ出つるまゝ』光大社、1938年、268頁$『軍事画報』1、郁文舎、1904年、5頁%『軍国画報』3、冨山房、1904年&『都新聞』1904年4月4日’『軍事画報』1、1904年、5頁。『都新聞』では、「米人数名」が購入したと報じられている〜47頁
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