D陸治筆「白岳紀遊図」について―422―『呉越所見書画録』に「白岳遊冊」(以下、呉越本)の一点、計三点が著録されている(注2)。このことから、陸治本と銭穀本の関係について、真贋問題を含めたいくつか研 究 者:実践女子大学 非常勤講師 玉 川 潤 子1、陸治筆「白岳紀遊図」と銭穀筆「白岳遊図」明代呉派の画家、陸治(1496〜1576)による「白岳紀遊図」(藤井有鄰館蔵)(以下、陸治本)は、嘉靖33年(1554)、蘇州から現在の浙江省を抜け、白岳がある安徽省休寧県の斎雲山までの名所旧跡を描いた実景図冊である。陸治は1550年代初めに貢生の身分を退いたと考えられており、そしてこの前後、1540年代から1550年代にかけて「玉田図巻」(ネルソン・アトキンズ美術館 1549年)〔図1〕、「石湖図巻」(ボストン美術館 1553年)、「潯陽秋色図巻」(フリーア・ギャラリー 1554年)〔図2〕など陸治の代表作品と称される画を多く制作している(注1)。「白岳紀遊図」はそれらと同時期に描かれた作品で、紙本設色、各縦28.0cm×横47.2cmの画面に16図、蘇州近郊の風景から斎雲山までの様々な名勝を、かすれているが柔らかい線を短く重ねた筆致と落ち着いた淡い色調で、一図一図丁寧に描き表している。白岳を題材にした作品は他にも数点存在し、早いものでは、元時代の冷謙による「白岳図」(台北国立故宮博物院 1343年)、明代の文人である周用による「新安十景図冊」(台北国立故宮博物院 1530年)中に「白岳」という一図がある。そして、陸治と同時代の呉派画家である銭穀(1508〜?)による「白岳遊図冊」〔台北国立故宮博物院 隆慶元年(1567)〕(以下、銭穀本)がある。この銭穀本は縦29.1cm×横30cmの全18図で、画の大きさこそ違うが、その描かれている内容、構成、モチーフ、跋文までも陸治の作品とほぼ同一の作品になっている。また、陸治の「白岳紀遊図」については現在著録が見つかっていないのに対して、銭穀の作品については『石渠宝笈三編』に「白岳遊図」(以下、石渠A本)と「遊白岳図」(以下、石渠B本)の二点、の論考があるが(注3)、結論が出ているとはいえない状態であるため、一度これらを整理したい。まず陸治本と銭穀本、銭穀の著録された作品の題、款記などを表とした〔表1〕。銭穀本は、作品に「石渠宝笈」をはじめとする印章が存在すること、題や図の順番、題識などが一致することから、『石渠宝笈三編』「明銭穀白岳遊図」(石渠A本)にあたると確認できる。そして、陸治、銭穀の款記の制作年の違いから単に銭穀が陸治本
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