鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―423―に倣ったとみることは簡単であるが、銭穀本、陸治本ともに前副葉の題識が許初(注4)によって書かれており、特に銭穀本の題識が少々問題を複雑にしている。陸治本「乙卯(1555)春二月上瀚、高陽許初題」銭穀本「磬室子在嘉靖丁未(1547)為茲遊、丙寅(1566)乃想像作此、始呉門道浙江、入睦州泝歙谿、至白岳而止、図凡十有八紙、隆慶己巳(1569)、呉人許初題」陸治本が制作の状況が一切書かれていないのに対して、銭穀本の跋には、1547年に銭穀は白岳に行き、その19年後の1566年に思い出しながらこの画冊を描いた、とある。つまり陸治が白岳紀遊図を描く7年前に銭穀は白岳を旅したというのである。そして、各図の題と実際の名所の場所を合わせていくと(注5)、この銭穀本の18図が蘇州から斎雲山へ向かう順に描かれているのに対し、陸治本はだいぶ順番が異なっていることがわかる。許初の跋や著録と一致すること、描かれた旅の行程順が妥当なことから銭穀本を基として、陸治本が制作されたとする論考もある(注6)。しかし、陸治本の表装(注7)は新しく、幾度か装丁し直されたため、旅の行程順ではなくなってしまったと考える必要があるだろう。おそらく、陸治本にも本来「富春山」と「岑山渡」の2図、18図で、「富春山」はその題材からも一図で十分作品として成り立つため、早くに別々にされた可能性もある。許初の跋と陸治本の作品順のみに頼るわけにはいかないだろう。そこで、陸治本、銭穀本で同じ図様でありながら題名が異なる陸治本第3図「密渡橋」〔図3〕と銭穀本第1図「L門」〔図4〕に注目してみたい。陸治本、銭穀本共に城外の風景を描いている図で、右端に城壁の角が描かれ、その城壁に沿って画面奥から流れてくる川と画面を横断する川が合流する地点を中心に、画面左には、アーチ型の橋が手前から向こう岸に架かっている。銭穀本のいう「L門」は明代蘇州では東南の城門にあたる。「蘇州府城図」を見ると〔図5〕赤門湾をはさんで滅渡橋という橋が架かっていた(注8)。その府城図を右方向から眺めると、銭穀本「L門」の城壁と川、橋の配置とほぼ一致し、作品中大きめに描かれた橋は滅渡橋に相当すると思われる。ゆえに銭穀の石渠B本と呉越本に「滅渡橋」とあるのは、「L門」と同様の風景を描いていたと考えてよいだろう。では同図様の陸治本の題した「密渡橋」はどこかというと、杭州城外、武林門前の京杭大運河に架かっていた橋と考えられる。現在は開発が進み、「密渡橋バス停」や

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