鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―424―「密渡橋路」と道名として残っているのみであるが、運河の終着にあたる地点の橋で〔表1〕と杭州の地を描いた図がないことに気付く。その後に富春山や七里龍など浙あった(注9)。つまり、同じ図様で違う場所を描いているのである。そして、ここでもう一度、銭穀本、石渠A, B本、呉越本の描かれた名所を確認する江の名勝が描かれているとはいえ、古来より景勝地である西湖とそれと共にある杭州の地を描かないことは不自然ではないだろうか。加えて、城門名を題とし、城門付近を描くならば、例えば沈周の作品のように門を画中に描くのが一般的ではないかと思われる〔図6〕。銭穀本のように出発地である蘇州の城門を描くよりも、陸治本の運河の終着地にあたる密渡橋を描いて、杭州到着を記しているほうが旅の画としてふさわしいのではないだろうか。また、陸治本第15図「斎雲巌」〔図7〕では、「飛雨」という建物を越えて流れる滝が、画面右の山頂に描かれており、二軒の建物の間を滝が流れ落ちているのに対して、銭穀本の同じ場面になると〔図8〕、建物を分断する形で滝が描かれ、その滝の落ちる先の表現もなく、陸治本を参考にしているといえるだろう。以上のことから、陸治本の方が、旅の行程の中で見た風景を描いているといえ、陸治本の制作年や作品の完成度が揺らぐことはなく、陸治の充実した制作活動の時期の作品にふさわしいものといえるだろう。2、表現について上述したように、装丁し直された陸治本を、実景に沿った順番に並び変えてみる〔表1・右部分〕(注10)。旅のはじめは、蘇州の文人間でよく知られている蘇州付近の宝帯橋、垂虹橋から、得勝M、密渡橋といった橋を中心に、穏やかな風景が描かれている。第4図の「垂虹橋」〔図9〕は沈周筆「三呉集景冊」(台北国立故宮博物院)、第4図「垂虹暮色」〔図10〕から構図の影響を指摘されているが、このように画面に水の表現を多くとる落ち着いた水景の様子は、同年に描かれた「尋陽秋色図巻」〔図2〕と共通している。富春江から淳安を経て、現在の安徽省へ向かう段の険しい渓流の様子や、斎雲山すなわち白岳に入った「斎雲巌」、「石橋巌」の図あたりに見られる山の表現は、「玉田図巻」〔図1〕に見られるような短いかすれた筆を重ねる山肌で、独特の入り組んだような山の景色になっている。斎雲巌に至るまで全体に水辺の風景が多く、舟旅だったことが見受けられる。そのような実景を、1540年代後半から50年代にかけて陸治が培ってきたいくつかの描き方で表現していることがわかる。第6図「七里龍」〔図11〕では霧にかかった風景にあわせて、陸治作品では珍しい米法山水を

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