―425―使って表現し、新たな試みもしている。そして、特に「斎雲巌」では、山を俯瞰した構図で跋に書かれた斎雲山の亭や峰、滝などの様子が画面左下から順序よく見る者が追っていけるように描かれている。この斎雲山の様子は明末に出版された『斎雲山志』(注11)に見開き10頁にわたって「石橋巌」から名所1ヶ所につき1頁版画で紹介されている。しかし一画面に斎雲山を描き、その中に多くの名所などを収めているのは陸治だけであり、構図の独創性が指摘できる。また、「屯谿鎮」では、石を組み合わせた橋を中心に筏が行き交う様子といった蘇州では見られない様子を描き出しており〔図12〕、その橋の石の色合いは薄茶を基調にやや灰色がかった茶の石を置き、朱で石の輪郭線をとる、という非常に丁寧に描かれている作品である。実際に見た景色を新しい表現、構図で描いた意欲的な作品となっている。3、白岳について なぜ陸治は実景の白岳を描いたのであろうか。明代は経済発展に伴う市民生活の向上を背景に旅遊する人々が出てきた時であり、銘茶、名品を求めたり、洞窟や名山を訪ねるといった目的の、まさに観光が増えてきていた(注12)。本来、斎雲山(白岳)は、道教、仏教の信仰の山であるが、この頃になると観光目的地としても名が広まってきていたのではないだろうか。画冊形式で旅を描いた作品としては、まず王履(注13)の「崋山図冊」〔北京故宮博物院・上海博物館 1383年〕が挙げられる。崋山は陝西省にある道教の五岳の一つであり、その華山山中を訪れた順に40図描いたものである。この「崋山図冊」は、後に王世貞(1525〜1593)の手元にあったとき、陸治はこれを臨模している(注14)。「白岳図」と「華山図」は道教にちなんだ山を題材にしているところが共通しているものの、陸治はその目的地である「白岳」に止まらず、行く途中の景勝地を順に描き出している。名所を描くのは沈周の「蘇州山水全図巻」(台北国立故宮博物院)が先行しているが、陸治は全3省に渡る名所を描いているのである。斎雲山(白岳)については、『斎雲山志』によれば、宋、元時代の人々にも詠われているが、王陽明(1472〜1528)などもその地を詠っているように、圧倒的に明代から人々に詠まれるようになっている。弘治4年(1491)に『休寧志』が出版されたり(注15)、休寧出身の程敏政(注16)が「斎雲巌記」を書いたこと、そして、唐寅(注17)は会試の事件の後、弘治18年(1505)に休寧を訪れ、斎雲山まで足をのばし、「紫霄宮玄帝碑銘」を書いたことが大きいのではないだろうか(注18)。特に程敏政の
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