鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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『石渠宝笈三編』の2作目「遊白岳図」(石渠B本)の最後には「銭穀遊白岳図伝世頗多…」との注がある。これは人気があった題材だったということ、また偽物も多く出回っていたことも伺える記述である。―426―注Luise Yuhas, “The landscape art of Lu Chih(1496−1576)”, unpublished Ph. D. dissertation, The■Luise Yuhas, “The landscape art of Lu Chih(1496−1576)”, unpublished Ph. D. dissertation, The記は斎雲山を具体的に紹介するものであり、人々の好奇心を刺激したのではないだろうか。斎雲山自体、唐代に寺が造られ、宋代には寺観が造られていたが、様々な寺観が造られるようになったのは、道教に傾倒していたと言われる嘉靖帝の時(位:1522〜1566)である。嘉靖巳亥(1539)には、「斎雲観」という額を下賜され、これ以降、「福地」を掲げているようである(注19)。このようなことから、16世紀なかばには山道も整い、人々の関心も高まり、参道する人も増えたのではないかと容易に想像ができる。陸治が斎雲山、白岳に行った記録といえば、この「白岳紀遊図」以外になく、『陸包山遺稿』などをみても陸治が白岳に行った記録がない。しかしながら『斎雲山志』に陸治と交流のあったと考えられる皇甫Nと周天球の詩がそれぞれ二首ずつ載っている(注20)。そして、皇甫Nが黄山と白岳に旅立つにあたり王世貞が詩を読んでいる(注21)。この皇甫Nは陸治の「玉田図巻」を贈られた王来賓について伝記を書いており、陸治と交流があったと考えられる(注22)。また、皇甫Nの著作集『皇甫司勲集』に「子陵祠」という五言律詩があり(注23)、この子陵祠は富春江沿いにある景勝地であり、陸治も第6図「七里龍」の跋文中で言及している旧跡である。皇甫Nと一緒に白岳に陸治が行った資料がないため、判断はできないが、確実に彼の周りで白岳に行った形跡がみられ、その中に陸治が含まれていた可能性があることを指摘しておきたい。以上のように、陸治の「白岳紀遊図」は、「白岳」というその当時流行し始めた一つの景勝地を描くというだけではなく、旅の行程中に訪れた(広範囲にわたる)江蘇省、浙江省、安徽省それぞれの景勝地や風景を実見して描いた、それまでには見られない新しい紀遊図ということができるのである。University of Michigan, 1979, P. 42University of Michigan, 1979,Luise Yuhas, “The landscape paintings of Lu Chih part II”, National Palace Museum Bul letin Vol.21Numbers 1−2, 1986,

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