鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
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―432―〔表1〕において、各時代の作風の割合をみていくと、「善五郎」時代には交趾焼の写しやその釉法を用いた作品が三割以上を占めている。これには保全の養父である西村家10代了全の作風や文政10年の偕楽園焼の影響が考えられる(注2)。この時期すでに交趾写しには、金箔を貼った上から透き漆を重ねる「白檀塗り」の技法が併用されている。明代万暦青花や明末清初の古染付・祥瑞をほぼそのまま写した作品も少なからず見受けられる。祥瑞写しについては、天保14年7月とされる善五郎隠居の直後、9月には紀州徳川家より「祥瑞御湯呑」5点の注文を受けており(注3)、おそらく天保年間(1830〜44)後半から祥瑞写しに高い評価が与えられていたものと思われる。また金襴手も焼成されているが、収集資料の大部分は紀州徳川家の御用品として制作された「葵御紋金襴手松竹梅雲鶴茶碗」で占められる。「善一郎」時代は、天保12年(1841)の奢侈禁止令を受けて天保14年(1843)頃に隠居し、別家として永楽善一郎家を創設したことにはじまる。3年程度のごく短い期間の作陶であるが、古陶磁写しの技術も真に迫るまで向上し、また作陶の幅も広がったようで、模倣から創造へ向かう作風が見て取れる。〔表1〕には「善五郎」時代に引き続き交趾焼の作風が多くみられるが、これらは交趾の釉法を用いながら木器や漆器など様々な茶道具の要素を加味した保全独自の作品となっている。染付や祥瑞写しの作品は少ないが、山水や人物などの文様は絵画的な傾向を示している。この時期見られはじめる呉州赤絵写しでは、一見忠実な写し物でも見込み内底に金泥焼付けによる果実文を描くなど、金彩を多用した作品が多い。金襴手では、花鳥や龍文を主文様として裾に青海波文様をめぐらした赤地金襴手の鉢や杯の様式が完成している。晩年の「保全」時代にも交趾写しは引き続き作られているが、「保全」時代初めの短い在京期間に制作されたものと考えられる。そして嘉永3年(1850)江戸へ旅立つが、翌年には大津まで戻り湖南焼をはじめている。嘉永5年(1852)5月には摂津高槻藩主永井家に招かれ高槻焼を焼いた。高槻窯での焼成は、湖南での周到な準備に基づいた一時期のみのものであった。大津に戻って後、再び湖南焼を行なうに際して三井寺円満院門跡の援助を受け、嘉永7年(1854)4月、三井御濱焼(長等山湖南焼)の初窯焼成を行なった。円満院門跡の御濱御殿における湖南焼は、主として作品自体の底裏に「長等山」「湖南長等山」などの染付銘、陶器の場合は「三井御濱」「長等山」の印刻銘を記したもの抽出した。〔表1〕中、湖南焼・高槻焼など「保全」時代同時期の作品は合計79点で、そのうち四割近くを占めるのが祥瑞写しである。湖南焼には祥瑞写し・金襴手・呉州赤絵写し・仁清写しなど京焼風の作品が確認できるが、総じて磁器質の盃や茶碗、小鉢など

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