「善五郎」時代―433―小品が多く、小規模の窯であったと推測される。高槻窯の現存作品には湖南焼と共通の祥瑞・金襴手・呉州赤絵など中国陶磁写しの磁器が確認できる。三井御濱焼には祥瑞写しの鉢類や向付、湯呑(筒茶碗)や花瓶(杓立)、香炉などがあり、ほかに「長等山」「三井御濱」の印刻銘をもつ鉄絵や色絵陶器の鉢がみられるが、これら陶器は保全が直接制作に関わっていない可能性があるとされ(注4)、主要作品は祥瑞写しとみることができる。3.モデルと写し物―「祥瑞」との比較考察江戸後期の陶家による中国陶磁写しの背景には、当時の古染付・祥瑞や呉州手磁器、交趾香合など明末清初磁器の流行があった。茶の湯の世界においてそれを如実に示すのは、安政2年(1855)に刊行された『形物香合相撲』番付表である。とりわけ祥瑞については、時代はやや下るが、安政4年(1857)序の『本朝陶器攷證』(注5)に詳述されており、その関心の高さが読み取れる。この章では、保全の各時代を代表する祥瑞写し作品を中心に、モデルとなったと考えられる中国陶磁などとの比較を行ない、その特徴を考察する。「善五郎」時代、すでに完成度の高い写し物を制作していたことは前述した。保全は善五郎襲名に先立つ文化年間(1804〜18)に、了全以来交流のあった三井家をはじめとする豪商に出入りし、数多くの秘蔵の名品に間近に接する機会を与えられていたという。永楽家にのこる香合の土型は豪商や家元に伝わる茶道具コレクションを直接に研究したことを端的に示す資料として貴重である(注6)。多くは交趾香合のもので、細かな白土で作られ、型の蓋と身には本歌の名称と所持者、制作年月日が彫り込まれているという。これらをみると、天保4年(1833)や天保11年(1840)に作られ、本歌の香合は豪商鴻池家やその別家である山中家に所蔵されていたことが分かる。この時代の祥瑞写しの代表作に「祥瑞写蜜柑水指」〔図1〕がある。器形は、下膨れのたっぷりとした胴の「芋頭」形であるが、厚みのある甲盛りの蓋に植物の軸を象った摘みをつけ、蓋裏に双虎を描く点において、本歌の祥瑞水指〔図2〕に倣っている。染付文様は、胴の上下にそれぞれ雷文と花唐草の文様帯をめぐらし、中央部に菱花や輪花、円や扇形の枠取りを散らし、その中に山水・人物・花鳥などの文様をはめ込んで、地を渦状の鱗文で埋め尽くしている。高台はやや高く、裾の釉が削られ、土
元のページ ../index.html#441