鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
442/543

「善一郎」時代―434―見せ部分を幅広く作っている。茶の湯において芋頭といえば、「南蛮」といわれる東南アジア産の焼締め陶器の水指だが、明末の古染付にも日本からの注文によるもの〔図3〕がある。胴の特徴的な膨らみ方や高めでやや外開きの高台の共通性から、器形は古染付芋頭水指を範としたものと考えられる。帯状の連続文様で器の上下を区画する手法は祥瑞に一般的なものだが、細かな鱗状の地文や菱花形の枠取りの組み合わせは、伝世の祥瑞でも水指にはみられず、むしろ香合などの小品〔図4〕の文様構成に近い。また高台に施された特徴的な釉削りや染付の略式唐草文は、茶碗〔図5〕や向付によくみられるものである。本作は染付の発色に優れ、祥瑞文様の特徴もかなり正確に描かれている。蓋の形状や蓋裏の文様まで、全くの本歌の水指の模倣とまでいえる作りにもかかわらず、全体の文様は大型の水指よりも小型の香合に近似する構成であった。これは保全の交趾写しに用いられた手法に近く、本歌の交趾香合にみられる器形や装飾をほぼそのまま拡大する形で食籠とした例があり、評価の高い特定の茶道具のイメージを作品に付加する目的があったと考えられる。保全は、善五郎として世に出た当初より中国陶磁の写し物を手がけている。天保年間前半期、交趾香合写しは本歌から型を制作し量産体制を整えるまでになっているが、一方で染付磁器の焼成技術は発展段階にあり、成熟した様相をみせるのは天保年間後半期以降と考えられる。「善五郎」時代の中でも「祥瑞写蜜柑水指」のような完成度の高い祥瑞写しは、天保年間後半期に制作されたものと思われる。天保14年(1843)9月の紀州徳川家による祥瑞写しの注文も、そうした技術水準・意匠構成力の向上を受けてなされたと推察される。この時代の祥瑞写しには「祥瑞立瓜香合」や「祥瑞写一閑人蓋置」、そして「祥瑞写筒水指」などがある。「祥瑞写筒水指」〔図6〕は箱書から、裏千家11代玄々斎が弘化4年(1847)に好んだことが知られる(注7)。器形は本歌祥瑞の水指にみられない素直な筒形で、胴裾にくびれさせ、外反する高台をつける。染付の発色は渋くやや暗めであり、胴の上部には帯状の雷文、高台には蕨手状の大ぶりな唐草文をめぐらし、胴部には毘沙門亀甲の地文に6個の瓢箪形の枠取りを作り、それぞれ異なる山水人物・花鳥の文様を施す。

元のページ  ../index.html#442

このブックを見る