―445―リズムや社会主義リアリズム絵画で描かれるアメリカ各地の地方や都市の情景のことを指すと同時に、彼自身が30年代に描いてきた静物画や人物画のことも示している(注4)。そして彼はオイディプス神話に着目し、彼の言葉によればこれを「いじる」ということを試みたのだという。こうして見出した絵画形式に「ピクトグラフ」という呼び名を与えた理由については、以下のように述べている。「絵画とは何であるべきかという承認済みの考えに対する軽蔑の気持ちから、私は自分の作品群に「ピクトグラフ」という語を採用しました。これは1941年のことです。」(注5)以上のようなゴットリーブの言葉からは、同シリーズが誕生した経緯には、自己批判も含む同時代のアメリカ絵画への批判的な態度があったことが読み取れるが、それ以外の背景も存在する。1930年代終わりから40年代初めにかけて、ニューヨークではいくつかの大規模なプリミティヴ・アートの展覧会が開かれ、絵文字が盛んに展示、紹介された。特に1937年の「ヨーロッパおよびアフリカにおける先史の岩盤美術」展(近代美術館)では、先史時代の洞窟壁画や岩壁画が平面のパネルに縮小して展示され、また1941年の「合衆国のインディアン美術」展(近代美術館)では、ユタ州南部のバスケットメーカー期の絵文字の、約4メートル(実物の約5分の1)もの複製が展示された〔図4〕。それらとの形式上の類似は特に見られないが、時期的に考えても、こうした展示が「ピクトグラフ」シリーズ誕生の契機のとなっていると推測できるだろう。同シリーズに関するこれまでの研究は、もっぱらプリミティヴィズムの枠内で行われ、主に図像的源泉と思想的源泉の解明がなされてきた。たとえばラッシングは、「合衆国のインディアン美術」展図録の見返しに印刷されたバリア・キャニオンの古代地上画の複製図版〔図5〕と1942年の《ピクトグラフ―シンボル》〔図6〕との類似を指摘する(注6)。思想的源泉としては、ジョン・グレアムの著作が挙げられる。ロシアより亡命し、パリを経てニューヨークに移住した芸術家、理論家であるグレアムは、ゴットリーブとは1920年代というかなり早い時期から交流があった。グレアムのアメリカ美術への貢献で、特に重要なのは、プリミティヴ・アートを通じて「喚起的な芸術」をいう芸術観を提起し、芸術の機能的側面をアメリカ人画家たちに示した
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