鹿島美術研究 年報第24号別冊(2007)
454/543

―446―「ピクトグラフ」シリーズの画中に描かれるものは、それにも増して曖昧ではないだことである。グレアムが、1937年に執筆した論文『プリミティヴ・アートとピカソ』は、多くのアメリカ人画家たちの心を引き付けた。同論文において、グレアムはプリミティヴ・アートの喚起的機能について以下のように記している。「原始部族の芸術は、非常に喚起的な特質をもち、その特質は無意識の精神のうちにある明瞭さを意識の中に取り込むことを可能にする。無意識の精神は、過去の何世代にもわたる人々とその形態がもつ、個人的あるいは集合的なあらゆる英知を蓄えているのである。言いかえれば、喚起的な美術は、我々の無意識がもつ力に触れるための手段であり、その結果でもある。」(注7)先行研究者のハーシュも指摘しているとおり、ゴットリーブはグレアムの思想の影響を強く受けていた(注8)。ゴットリーブや周辺の画家たちにとって、グレアムのこうした言葉は、自らの芸術をプリミティヴ・アートと同等のレベルに近づけ、人類に共通してある無意識(ユングの「集合的無意識」)に直接的に働きかけようという指針を与えるものであった。実際、ゴットリーブがアロウェイに語った次のような言葉は、グラハムの思想の影響を裏付ける。「ゴットリーブによれば、彼の絵文字のどれかに付与された既存の意味を知ってしまうと、それらは無用のものとなるという。彼の作品中の記号は、喚起的なものでなければならず、割り当てられていないものでなければならなかった。」(注9)アロウェイをはじめ、先行研究では「ピクトグラフ」シリーズはしばしばこの喚起作用によって意義付けられる(注10)。そして、世界が戦争のさなかにあり、自国も戦争へと向かってゆくこの時期を背景に、同シリーズが喚起する内容は、悲劇、恐れ、人間の本質的な野蛮さであるとされている。しかしながら、たしかに思想的源泉となっているかもしれないが、グラハムの言葉をそのまま作品の解釈に結びつけることには疑問を付したい。というのも、これはいささか主観的な言い方かもしれないが、ろうか。たとえそれらが喚起性、無意識への接続を意図したものであったとしても、引用された上に断片化され、ランダムに配置された形象は、観者に対して喚起作用を引き起こすことに必ずしも成功してはいないのではないか。ここは、そうした是非を問う場ではないが、形式の曖昧さそれ自体を考察してみる必要があると思われる(注11)。

元のページ  ../index.html#454

このブックを見る